第15回 羊は草をはむ
いらっしゃいませ。カフェ・モンポウにようこそ。
今日は、いつもと少し趣向を変えまして、私が最近愛奏しておりますバッハのアリア「羊は安らかに草をはむ」について、徒然なるままにお話ししてみたいと思います。
これは、「楽しき狩りこそわが喜び(バースデー・カンタータ)」という世俗カンタータの中の1曲です。礼拝とは無関係の世俗カンタータは、オペラ的な要素が強く、音楽にこめられた風刺やユーモアなど、バッハの知られざる一面を垣間見ることができます。「バースデー・カンタータ」は、ザクセン選帝侯の誕生日を祝う作品で、「羊は安らかに草をはむ」は、領主を羊飼い、人々を羊になぞらえて、「良い羊飼いのもとでは、羊は安らかに草を食むことができる」などと領主を称える、一寸ユーモラスなアリアになっています。
このような一見軽い内容の音楽にも、バッハの力量は遺憾なく発揮されています。草原で草を食んでいる羊たちを見つめるバッハの優しい眼差しは、その情景を、こんなにものどかで清冽な音楽に写し取りました。リコーダー(フラウト)2本が奏でる素朴な調べは、草原の空気とともに、羊たちの匂いまでも運んでくるようで、聴き手にタイトルどおりの情景を連想させずにはおきません。聴き手の心に平安をもたらしてくれるような、素晴らしい音楽です。
ところで、右手の故障が新しい治療法で奇跡的に回復し、40年ぶりに両手での演奏活動に復帰したレオン・フライシャー氏が、2004年に発表した「Two Hands」というアルバムがあり、この「羊は安らかに草をはむ」(エゴン・ペトリ編曲)のしみじみと印象深い演奏が収められています。この感動的な復帰のアルバムは広く愛聴されていますが、その名演に触発されて、エゴン・ペトリ編曲の「羊は安らかに草をはむ」をレパートリーに入れるピアニストも増えてきました(かく言う私もその1人です)。フライシャー氏は、実演でも、アンコールなどでこの曲を愛奏しておられ、涙をさそわれた方も少なくないでしょう。原曲に忠実でありながら、たいへん趣味の良い内声のハーモナイズがなされた、エゴン・ペトリによるすぐれた編曲は、フライシャー氏の演奏によって、これまで以上に広く知られるようになったのです。
すぐれた演奏家によって弾かれることで日の目を見る作品というものがあります。ラローチャ女史によるアルベニスなどがそうですし、舘野泉氏が満を持して取り組んだセヴラックのアルバムは発売当時「こんな素敵な作曲家がいたのか」と音楽仲間のあいだで随分話題になりました。今回のケースは少し異なるかもしれませんが、フライシャー氏は、バッハの音楽、さらにはエゴン・ペトリによる編曲の魅力を余すところなく伝え、この曲のピアノ編曲版の愛好者を着実に増やしています。
何はともあれ、青空の下で草を食んでいる羊たちの情景を思い浮かべながら、バッハの音楽を味わっていただければ幸いです。
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