第12回 ボルトキエヴィッチを味わう
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今日は、ロシア(現ウクライナ)の作曲家、セルゲイ・ボルトキエヴィッチ(1877-1952)の甘くロマンティックな佳曲をご紹介します。
セルゲイ・ボルトキエヴィッチをご存じですか?主にウィーンで活躍したロシアの作曲家で、ラフマニノフ、スクリャービン、メトネルらと同世代のロシアのコンポーザー=ピアニストの1人に数えられます。
ボルトキエヴィッチの音楽は、ラフマニノフを彷彿とさせるような濃厚な歌心にあふれたロマンティックなものです。時に、耳触りがよく癖のない音楽作りが微温的と受け取られ、ラフマニノフの亜流のように蔑まれてきましたが、その胸をきゅんとさせるような美しいメロディーは、今なお私たちの心を捉えるだけの魅力を備えています。
ボルトキエヴィッチはペテルブルクでリャードフに師事したのち、ドイツのライプツィヒ音楽院に留学、その後もドイツに留まってベルリンを拠点に活躍し、現地の音楽院で教鞭もとっていました。そんな中、1914年、第一次世界大戦の勃発が彼の生活を一変させます。敵国ロシア人であったために自宅に軟禁された彼は、ドイツを離れることを余儀なくされ、ロシアに帰国することになります。
ロシアでは、大戦後、ロシア革命が起き、新しいソ連共産党政権に土地を略奪されてしまいます。1919年、彼はコンスタンティノープル(現イスタンブール)に移住しますが、革命でルーブルが価値を失ったため、このときの所持金はわずか20ドルだったそうです。
コンスタンティノープルではユーゴスラヴィア大使と親しくなり、大使館内の音楽団体の指導を任されるなど平穏な日々を送っていましたが、彼は再びヨーロッパで作曲活動をしたいと切望していました。1922年、大使の協力でユーゴスラヴィアへのヴィザを獲得した彼は、ベオグラード、ソフィア経由でウィーンに移住します。
彼は、1926年にウィーン市民権を得て、1952年に亡くなるまでウィーンで過ごし、多くの作品を残しました。ラヴェルやプロコフィエフらと同様、戦争で右手を失った名ピアニスト、パウル・ヴィットゲンシュタインのために、左手のためのピアノ協奏曲も書いています。1947年には、ウィーンにボルトキエヴィッチ協会も設立されています。
死後は長らく忘れられた存在でしたが、近年、ウクライナ国内では、チェルニーヒフ交響楽団が積極的に彼の作品を上演するなどし、再評価の機運が高まっているようです。また、フランスの名ピアニスト、シプリアン・カツァリスがCDをリリースするなど積極的に取り上げたことでも、一部のファンに広く知られるようになりました。
今回ご紹介させていただくのは、前奏曲 Op.33-7と、コンソレーション Op.17-2です。作品として見ると物足りなさを感じる向きもあろうかと思いますが、ここでは、あまり細かいことを考えずに、その甘美なメロディーの世界に浸っていただければ幸いです。皆さんのレパートリーにも加えてみてはいかがでしょうか?
参考リンク Sergei Bortkiewicz: his life and music
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