芸術の都 Paris
1795年に王政時代の声楽、演劇学校を母体として再設立された《パリ国立高等音楽院=CNSMDP》はFrank、Saint-Saëns、Mussenet、Chausson、Fauré、Debussy、Satie、Ravel、Jolivet、 Messiaen、Dutilleux、Boulezなど、近代フランス音楽を興隆期に導いたレジェンド達を多数輩出し続けてきた音楽のメッカである。
1795年と言えば、王政の封建的特権への抵抗から市民の決起によるフランス革命が起こっている。ルイ16世は処刑されブルボン王朝は終末を迎え、王政から共和政へ移りゆくなか、国家の長として皇帝の座についたのはナポレオン一世であった。《自由、平等、博愛》の理念の下に近代国家を目指し、国外制覇を目論みロシアまで侵攻を進めるが、冬将軍に阻まれ、彼の野望は無惨にも打ち砕かれた。
世界中の人々を集めてパリの18区のご自宅(現.3 place de Nadia et Lili Boulanger )で通年水曜日に開講された《Analysis class》で、ブーランジェ先生はこのNapoléonについて話をされたことがある。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ Op.81a "les Adieu(=告別)"の講義のなかでナポレオンによる1812年のロシア遠征を題材にしたトルストイの「戦争と平和」に触れられ、ドラクロア、ダヴィッドの描く当時の関連絵画についての話をされた。一枚目の絵は意気揚々とした出征時の姿、二枚目は生気の抜けた面持ちの敗退時の姿…同一人物の栄枯盛衰が描かれたこれらの絵はルーブル美術館に所蔵されている。
ベートーヴェンはナポレオンのウィーン侵攻時の1809年に作曲した「告別ソナタ」において、彼の最大の音楽的協力者であったルドルフ大公の疎開について楽章毎に、「告別」「不在」「再会」と珍しく題目を記して精神的な苦悩と歓びを示唆している。また1803年作のSymphony No. 3を”Eroica( =エロイカ)”と名付けナポレオンに献呈しようとしていた(その後ナポレオンが皇帝の座に即位したと聞き、怒り心頭に発したベートーヴェンが表紙の献呈の文字を破り捨てたというエピソードがまことしやかに伝えられてきた)。献呈は実現しなかったが、その手稿は元の形のまま出版された。
ブーランジェ先生がアメリカ音楽院の院長に就任された1950年以降、夏の2ヶ月半をデュドネ先生と住まわれたフォンテーヌブロー城は、ナポレオン自身の夏の居城でもあった。彼の死後、一世の再婚相手のHabsburgハプスブルグ家の血筋を引く甥のナポレオン三世は、一世の遺志を継ぎ、彼のこよなく愛したFontainebleauを手本にセーヌ川沿いの水脈の大改造を行い、今も当時のままに美しい景観の文化に彩られた「芸術の都Paris」を完成させている。こうして歴史に根ざしたパリの街、近代都市への骨子はまさにナポレオンの時代に出来上がった。
フランス革命のさなかに市民の志気高揚を促そうとフランス軍楽隊が誕生するが、それはのちのヨーロッパ近代吹奏楽の祖と言われる。
治世の動乱期にありながらも人間の尊厳と精神的ゆとりを第一に、神聖なる芸術と文化の振興を図ろうとする視点にフランス的éspritを感じる。また王侯貴族や一部の特権階級のためだけでなく一般大衆が享受できる芸術的環境を広げること。歴史をふり返り、物事の源流と本質を見つめ直すこと。国同士が相互扶助を受けつつ、固有の芸術的創作活動を活性化させようとする着眼点にフランスの懐の広さを感じる。
芸術を媒体としたコミュニケーションはいつの時代も不滅である。
ある時、先生の御宅のアナリーゼのクラスが引けて慣例のゲストの方々が先生にご挨拶をなさる列のうしろに並んで待っていたときのこと、前にいた年配の女性が先生に話しかけられた…
「実は~さんのことで…」と、わたしも聞いたことのある人の噂話である。別段聞くつもりもなかったが、偶然耳に入ってきたのはかなり不快な話であった。無言のまま話を聞いていたブーランジェ先生のお顔は見る間に苦痛に歪んでいく...その後、女性の言葉が途切れるのを待つと呻くように答えられた。「えぇ…でもその人は、恥というものを知っているはずです…=Mais.... IL connaît honte…」すると、その女性は何も言わずにくるりと向きを変え足早にその場を立ち去って行った。
教師というお立場上、コメントを求められる機会の多かったブーランジェ先生ではあるが、演奏家や作曲家に対して、弟子たちの演奏や作品について音楽的見解を述べられることはあっても、芸術家の人格や人間性に甲乙をつけたり、是非善悪で人を測ることは決してなさらなかった。
アナリ−ゼのクラスの試験では、バッハの平均律の声部の穴埋め問題に加え、課題について書く小論文の出題があり、私は和仏の辞書の持込みを許可された。のちに留学から帰り、母が保管してくれていた先生の直筆の手紙を読んで、震える文字でその試験の結果を褒めて下さっていることに初めて気づいた。
そう言えば9月16日の先生のお誕生日に御宅に伺った際のこと。
その年ブーランジェ先生はアメリカ音楽院の開校中に倒れそのまま入院されてしまった。パリに戻って先生の身を案じていると、お誕生日のレセプションの招待状が届いた。内輪の顔なじみ方がお祝いに集まり、その際には心底安堵したものだ。
寝室でベッドに横たわったままの先生にお祝いを述べて帰ろうとした私はジョゼッペに呼び止められ引き返した。なにごとかと寝室に戻るとベッドから両腕を高く広げて待っておられ、私がそっと顔を近づけると「あなたは私の娘のようになるだろう…」と仰ってハグをしてくださった。
フォンテーヌブローで入院中の先生をカサドシュ夫人と御見舞に伺ったからかしら???
先生のお手紙を読んだその時、夏前の6月のアナリーゼの試験に日本の「侘び」、「寂び」について書いたこと、そのため成績の順位が上がったこととの関連をはじめて認識したのだった。
フランスに留学中「Georges Caussadeは書式について厳格であるが、Nadia Boulangerは音について厳格である」と言われるのを耳にした。和声の課題は何度でも納得が行くまでやり直しを強いられ、キーボードハーモニーのクラス(パリ音楽院の伴奏科のクラスに準ずる)におけるVidalのべースの実践やオケのスコアリーディング、シューマンの歌曲のcléを使った移調も当てられたら即、下手でも最後まで止まらずに弾くのが鉄則であるーその厳しい指導で身に付いたことは貴い。
何ごとに於いてもブーランジェ先生は「型」を重んじられた。
が、個々のアイデンティティを感じられた時点で、型よりも独創性を尊ばれたのである。
佐藤祐子