ピティナ調査・研究

リリー・ブーランジェと「ローマ賞」

ナディア・ブーランジェ先生のことば~晩年の7年間にレッスンを受けて~
リリー・ブーランジェと「ローマ賞」

リリー・ブーランジェがローマ大賞(Prix de Rome)受賞後の1914年に滞在したローマのヴィラ・メディチ(Villa Medeci)は、現在フランス芸術アカデミーが置かれている場所である。

若手芸術家のための登龍門として1663年に創設されたローマ賞は1720年の建築賞に続き、1803年には音楽賞を加えた。ナポレオンの古代文化芸術の復興を旗印に、その発祥の地のローマのヴィラ・メディチを在ローマ・フランス・アカデミーに認定して発足している。ローマ大賞受賞者は、受賞後ここに一定期間滞在して創作活動に専念するのが慣わしであった。

 

そのときリリーが書き上げた《Trois Morceaux pour piano》を概観してみる。

 

1曲目の「D’un Vieux Jardin」では、第一次世界大戦の前兆の不穏な気配を感じながらも、全音音階を用い、雄弁な手法で転調を繰り返しフォーレの流麗さと上品さを感じる一方、自然の恩恵に感謝する温かみと、母親の祖国であるロシアの雄大さが感じられる。
2曲目の「D’un Jardin Clair 」では、Carillon=鐘桜が静かに、ゆっくりと残響の余韻を変化させ、鳴り響いていくーあたかも、平穏無事への祈りを込めているかのようだ。
3曲目の《Cortège=行列》の五音音階の扱いは、オプティミスティックな雰囲気を醸し出している。ひょうきんな滑稽さのようなものが、昔フランスのTVで見たパリ万博当時の、お侍いの行列の動画と重なってしまう…一人のお侍の草履の鼻緒が切れたのも知らずに大名行列は先に進んでしまうが、ハタと気づき、慌てて一人だけ。大通りに残された草履を取りに走るーそのぎこちなさと緊張した面持ちが、何とも微笑ましかった。

この作品は、第一次世界大戦が始まる1914年に書かれている。そして、1918年大戦の終息する半年前の3月15日、リリーは8月21日の誕生日を迎えることなく、パリ近郊のメジで24歳の若さで亡くなっている。

リリーは幼少の頃からFaureの伴奏で歌い、様々な楽器を奏し、ナデイアは彼女が6歳で亡くした父親の代わりに音楽の手ほどきを引き受けた。リリーは16歳の頃には作曲家になる意志を固めた。このころより難病におかされ、転地療養を重ねながらも19歳で女性初のローマ大賞を手にする。

その後も病のために作曲活動も制限される生活のなかで、音楽からつかの間の喜びを感じられれば、そこに生きる希望が生まれるかもしれない、そんな心境に至りながら、リリーはナディアを頼り、息を引き取るまで、口述筆記を頼みながら作曲を続けた。

【平和を望みながら】

Lili・Boulangerは様々な様式の、構成の異なる作品を残している。なかでも、宗教的な作品を多く残しているが、《Vieille prière bouddhique=仏教の古い祈り》は、唯一仏教の題材に拠る作品である。そこで用いられたテキストは、仏教の古い経典の一部に内容が酷似している。

生きとし生きるすべての衆生は、生きているあいだに成仏するー即ち、「仏陀の精神に至る道筋」を説く、声明である。仏語の歌詞が読経のように聞こえるこの作品は、それまでとはまったく異質な、他に例を見ない宗教的作品である。

「幼少時から病弱で、きわめて求知心旺盛であったリリーは、語るべきことを自らの音楽語法によって語りたいがために延命を望みました。作品は心の内面的表出としてではなく、一切の対外的効果とは無縁な音楽語法によって、ありのままの姿として語るべきことを必要に迫られて語ったまでなのです……」とナディアはリリーについて語っている。

二十歳でローマ大賞に輝きながらも難病に冒され、深い内省をもって「生きたい!!」「作曲を続けたい!!」と願いながら僅か24歳で亡くなった、Lilliの衷心を感じる作品である。

佐藤祐子

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