いのちの躍動
初めてノートルダム教会に足を踏み入れた瞬間の、重低音の音圧に心臓が口から飛び出しそうなほど、からだ中が振動したことを思い出す。
オルガンの響き、そして、お城で倍音とその余韻の複雑な広がりの美しさに打たれた日、また、ブーランジェ先生のゆっくりと弾かれるバッハのフーガのテーマ、その1音1音を聴いた瞬間、からだのなかを電流が走った。
「この先生について、勉強を続けたい!」と心の底から思った。
英気あふれる、立て板に水を流すような熱弁の根底にある音楽への情熱、文学、絵画…芸術全般への造詣の深さ、その源に流れる情に満ちた、思いやりあふれるお人柄。
当時すでに86歳というご高齢でいらしたが、年齢から受ける印象とはほど遠い《いのちの躍動》生気の発揚は、ブーランジェ先生の気迫あふれる講義のなかに、脈々と流れるのを感じたのである。
ブーランジェ先生の母方の家系をたどると、母親のlissa・Boulanger夫人がロシア帝国の貴族の出自であることがわかる。サンクトペテルブルクに住んでいた頃はチャイコフスキーと親交があり、彼の伴奏で声楽を嗜み、音楽愛好家だが芸術家気質を備えた女性であったらしい。liliとnadiaの2人の娘の音楽教育全般が母の手に委ねられたのは、こうした家庭環境による。
先生のお宅では、アナリ−ゼの期末毎の試験のあと、むかしからの習慣で生徒たちに、銀製のサモワールで入れた香り高いキーマンのお紅茶と、ラムレーズン入りのチーズを挟んだサンドウィッチが毎度振舞われた。その紅茶は、深いアジアのTHÉの香りがした!
7歳のnadiaに和声教則本をまる一冊暗記して教え、音楽家としての素養を身につけさせたのは、フランスオペラ・コミックの作曲家でローマ大賞も受賞、パリ音楽院の声楽科の教授であった年取った父親よりも、むしろ、43歳年下の母親であった。
ナディア・ブーランジェと母親のライサ・ブーランジェ夫人は、生涯特別な絆で結ばれていたのである。
『天才的女流作曲家でローマ大賞1位に輝きながら24才で夭折した妹のLiliの3月15日の御命日には、パリのトゥリニテの教会でRaissa・Boulanger夫人と妹のLili・Boulangerの追悼ミサが毎年執り行われ、生徒達のもとには、毎年案内状が届いた。
当時トゥリニテの教会の専属オルガニストであったOlivier・Messiaenは、典礼の伴奏を受け持たれることも多かった。この2人の師弟関係については不仲であるとの噂も立ったが、過去に作曲家としての方向性について何らかの談義があったとしても、このメシアン自身の作品を含む御命日のミサのオルガン追奏は、相互の深い信頼関係を真に感じさせるものであった。因みに私は試験の結果のご褒美としてブーランジェ先生からMessianのPréludesの楽譜を頂いたこともある。
Lili・Boulangerはわずか24才で難病で夭折しながら極めて老成かつ熟練した多くの意味深い作品を生み出しているーその驚異的な原動力の源にも、やはり母方のロシアの熱烈な「いのちの躍動」が感じられる。
「生命の躍動(=エラン・ヴィタル)」は、ブーランジェ先生が好んで語られたフランス人哲学者ベルクソンの哲学用語である。
ロシアも東ヨーロッパも、西ヨーロッパも、その源流を辿ると、ローマ、ギリシャ時代…あるいは更に古い時代までさかのぼる。
古代ローマ帝国時代から民族大移動を経て東ヨーロッパへ、神聖ローマ帝国として、西ヨーロッパの国と統合や分断を繰り返して独立した東ヨーロッパの国々、特にロシア帝国時代以降の国の内外の歴史は複雑である。 出生地と死去の地が異なることはよくあることである。
我々にしても、自分の先祖がどこからきたのか、正直よくわからない。
いっぽうでその人物と先祖代々が、生まれ育った土地、その生活環境から習得した諸々のことは、いったいどのようにして、先祖からその子孫へと受け継がれていくのだろうか。
ストラヴィンスキーは1938年に移り住んだ米国からロシアに晩年に一度里帰りをしているが、その前にパリに立ち寄ってブーランジェにこう不安を打ち明けている。
『むかし育った故郷はあの頃のままだろうか。 変わり果ててはいないだろうか。』
故郷との絆は、たとえ国がなくなっても作品の中に生き続け、魂は受け継がれる。その作品を多くの人が認め、懐かしむ時代は、かならずやってくるのである。
2023.3.11 . 佐藤祐子