ピティナ調査・研究

フォンテーヌブロー

ナディア・ブーランジェ先生のことば~晩年の7年間にレッスンを受けて~
フォンテーヌブロー
五大陸からの音楽家たち

「アメリカ音楽院」では、お城の一角にある〈jeu de Paume 〉で、毎週コンサートが開かれていた。ブーランジェ先生に会いに、古いなじみの音楽家が世界中から入れ代わり立ち代わりフォンテーヌブローを訪れる。

有名なジャズプレーヤーなのだと後から聞いて知ったのだが、ある時は麦わらのハットにチェックのスーツ、ステッキを片手に持ち、ヨーロッパでは見かけない出で立ちの客人を見かけたークインシー・ジョーンズであったらしいー。

アメリカやブラジル、アルゼンチン、カナダ、イギリス、フランス、イタリア、ギリシャ、スペイン、ドイツ、スイス、ノルウェー、ポーランド、ルーマニア…五大陸からたくさんの音楽家がフォンテーヌブローにやって来たーピアニスト、ヴァイオリ二スト、チェリスト、オルガニスト、声楽家、作曲家ー様々な音楽家である。

George Enescu、Francis Poulenc、Andre Marchal、 Slima Stravinsky、Gerard Souzey、Sir Clifford Curzon、Nikita Magaloff、Narciso Yepes、Patrice Fontanaroza Yehudi Menuhin、Daniel Barenboim  Régis Pasquier、Georges
Questa、Eric Heidsieck

等々。

客人方は、演奏会が終わると学生の為のレストランの個室で、ブーランジェ先生のおもてなしによるプライベートな夕食会に出席された。先生はその日に演奏された旧知の客人、そしてパリから演奏会を聴きに来られた親友方とのくつろいだ団らんのそのひとときを、何よりも楽しみにされていた。学生や生徒がその夕食会のご相伴に預かることもあった。

お城の庭園で開かれるカクテルパーティーには、ブーランジェ先生の後にパリ音楽院の伴奏科を引き継がれたHenriette puig Roget先生や、エコールノルマルの校長を勤められた弟子のNarucis Bonnet先生、学院の役員であったPaul Valelyの次男のFrançoisもパリから見えていたのであるー
父親がブーランジェ先生の親しい友人であり家族ぐるみの交流のあった彼は先生に預けられ、幼い頃に音楽の手解きを受けていた。

フォンテーヌブローの高級別荘地には、先生の親しい友人方も毎夏を過ごされており、学院の関係者をお庭のカクテルパーティに呼んでくださった。
ブーランジェ先生にとっては、20世紀初頭の貴族やブルジョアの集まる芸術家のサロンの名残りが、こうした形で当時もまだ、継承され続けていたのである。
週末の休日にはバルビゾンやロワール川の古城へのオプションツアーに参加する人もいたが、私はこの2ヶ月間は、絶対に一歩もこの場を離れたくないと思った。
FauréやDebussyの生きた時代にタイムスリップしたような錯覚におちいり、ひたすら音楽に没頭できる環境、歓びに満ちた日々であった。

8月に入ると、マスタークラスや最後の学院のコンサートの準備に追われる。
コーラスのクラスの最後の演奏会は夕食後の食堂で行われた。ブーランジェ先生もお出ましになり、静寂のなかで皆の心がひとつになったモーツアルトの《アヴェ・ヴェル厶・コルプス》の歌声は未だに耳に焼きついている。その他、学生の新曲の演奏を急に頼まれることもあったー

Emille Naumoffとは、フランスに行った最初の年から練習室を分け合ったが、講義や練習の合間にフリスビーをする以外は音楽に明け暮れた。さらわなくても弾けてしまう神童のエミールのお陰で、わたしは思う存分、練習することができたのである。

エミールはブルガリア出身の男の子で、8歳でブーランジェ先生に師事するため、一家でパリに移り住み、脳外科医の父親はパリとブルガリアを行き来した。
彼は和声も対位法も作曲も出来る。その上ピアノも上手で、アナリーゼのクラスでは、先生の質問に真っ先に正解を答えてしまうため、先生は「エミール以外! 」と急いで彼をさえぎらねばならなかったー頭の回転が速く、和声進行や転調を素早く聞き分け、演奏には情感がこもり、音楽性に満ちていたー彼の演奏を聞いたおかげで、和声を勉強すると頭でっかちで演奏がつまらなくなる、という懸念を、一切わたしは持たなくなったのである。
彼以外にも、両親に連れられてフォンテーヌブローにブーランジェ先生に会いに来られる神童は毎年いたが、彼は唯一無二であった。

Daniel Barenboimは10歳でソロデビューをして、1954年に14歳から1年間、ブーランジェ先生に師事している。1年しか学んでいないのは、すでに何でもできたのではないか。私が留学中に彼はパリ管の常任指揮者となった。ブーランジェ先生は彼の妻のジャクリーヌ・デュ・プレの病気のことを最大の悲劇と言っておられた。彼は、ザルツブルグでブーランジェ先生の弟子の鬼才イゴール・マルケヴィッチに指揮の薫陶を受けている。献身的に妻の病気治療を支えた。

Soulima Stravinsky の来訪

ブーランジェ先生の講義はコンサートに使われる〈jeu de paumeで開かれることが多かったーとりわけ、演奏会が行われる当日の午後の講義には…

ある日、先生が講義をなさっている最中に入口から小柄な男性が入って来られた。
「Mademoiselle!!」と張りのある声で呼びかけたーすると、途端に先生はパッと顔を上げられ、眼鏡越しに目を大きく見開かれ、声のする方向をご覧になった。

授業中にも拘らず入って来られ、このように親しげに先生に声をかけられる人物とは、いったい誰なのだろうか?!

声の主は小躍りをするように先生の方に近づいて来られ、「ただいま、到着いたしました! ひと言ご挨拶に参りました」と口早に喋った。
すると、先生のお顔が一瞬のうちに輝いた!男性はそれ以上先生に近づこうとはせず、立ち止まり「それでは、のちほどお目にかかりましょう!」と言うなり、くるりと向きを変えて足早に去られた。

先生は高揚した面持ちでお喋りになろうとするが声にならない。彼の姿が入り口から消えるまで、ずっと目で追っておられた。しばらく経って呆然とした面持ちで我に返られると「今のは、Soulima・Stravinskyさんです。息子さんが今、アメリカから夜のコンサートのために到着されたのですが、わたしはてっきり、Igor が入って来られたのかと思ったのです…声が余りにもよく似ておられたので…」と、しばらく唖然とした面持ちで語られた。

イゴール・ストラヴィンスキーはロシアの古い習わしに従い、作曲家として成功後も母親の前では決して座らず、常に襟を正して直立不動の姿勢のままであったという。そんな父親の姿を彷彿とさせる、息子のSoulimaであった。ピアニストの彼は風貌も父親と瓜二つであった。その晩、彼は、ソナタを含むストラヴィンスキーの作品のみ、演奏したのである。

後年、パリのブーランジェ先生のお宅で毎週開かれていた、かの有名な水曜日の《アナリーゼのクラス》で、先生はストラヴィンスキーの作品《Les Noces=結婚》を取り上げられた際に、
「わたしは、彼の優しさについて、書こうと思えば、本を1冊分くらいは書けますよ!」と話されたことがあった。
ブーランジェ先生ご自身についても、そのお人柄は、厳しい反面、スラブ魂の人間味溢れる一面がふと顔をのぞかせることがあった。

Igor Stravinskyについて

ストラヴィンスキーは現在のキーウで誕生した。従姉妹に当る妻カテリンとの最初の結婚で4人の子を設けた。

1914年、彼は第一次世界大戦の勃発と同時に、子供らと毎年冬を過ごしたスイスに移り住み創作活動を続けたが、経済的にも芸術活動の面においても困難な時代を過ごす。
1905年の第一革命をきっかけにロシアでは政局に不穏な動きが高まり、1917年には2度の第2革命が起こり、ストラヴィンスキーは、祖国の土地、屋敷を革命政府に没収されたー

その後、1910年から13年にかけて《火の鳥》《ペトルーシュカ》《春の祭典》をパリで初演すると、新古典主義、セリー主義など新しい手法で《若手作曲家の革命児》としてフランスで受け入れられるのである。
また鬼才ディアギレフとの出会いによって、《バレエ》というジャンルで新機軸の作品を打ち出し、1920年からは、フランスを拠点に活動を始める。

当時のパリの社交界に於いて、芸術、音楽について一見識を持つ女性としてその名を知られたポーリャック公爵夫人は、ブーランジェ先生の直弟子の歌手であったが、先生の度々の米国への演奏旅行にも同行され、モンテヴェルディのコーラス曲巡業を行われるなど、芸術の鑑識眼を備えた女性であった。
彼女の音楽サロンを通じてストラヴィンスキーと出会われたブーランジェ先生は、彼の類まれな才能の良き理解者となり、またストラヴィンスキーも、ブーランジェ先生の見識力の高さと達眼に絶対的な信頼を寄せて、新曲の手稿を真っ先に見せて意見を求められる間柄であった。

ストラヴィンスキーは第二次世界大戦が勃発する1939年にハーバード大からの講義の依頼を受けてアメリカに渡り、大戦終息後も市民権を得てアメリカに留まった。
1962年、80歳のとき、最初で最後のロシアへの帰郷を果たされる。

当時のブレジネフ大統領はロシアへの帰国を勧めるが、ストラヴィンスキーは、子供たちと再婚した妻の待つアメリカに戻ったのである。

ストラヴィンスキーは、ディアギレフとともに、ヴェネチアのサン・ミケーレ島に埋葬された。彼の横には、のちに再婚した妻のヴェラも眠っている。

2023.3.11 . 佐藤祐子

調査・研究へのご支援