ピティナ調査・研究

ブーランジェ先生との出会い

ナディア・ブーランジェ先生のことば~晩年の7年間にレッスンを受けて~
ブーランジェ先生との出会い
春の息吹

コロナ禍で引き籠もりの生活が長くなり、窓の外を眺めることが多くなった。

立春を過ぎ、ひとけも減った近くの神社の庭に野鳥がやって来る。晴れた日には機嫌が良いのか、一羽ずつ木立をリズムよく飛ぶ。ある時は、ピアノに呼応してさえずり始める。
日本の春の訪れ、季節の移りかわりはうららかにやってくる。

日本では、四季の自然の営みを古くから生活に取り入れる習慣があったーそれは、自然のなかに神の存在を見る、日本古来の宗教観とも深い関わりがあるようだ。
春には花を咲かせ、芽吹いた葉は夏に生い茂り、秋になると彩色豊かに紅葉して落葉する。
月は満ち欠けによって姿を変え、満月にはその輝きの陰影に神秘性を感じる。そこには、日本独特の精神文化が存在する。

それにひきかえ、私が若い頃留学したフランスでは、春の息吹は、森羅万象の生きる活力の漲りとともに、或る日突然、訪れる。
冬の半年間、空を覆いつくした雲が一気に晴れ、太陽がさんさんと降り注ぐ。
その日を境に、セーヌの岸辺では若者たちが待っていたかのように一斉にTシャツ姿で日光浴を始める。

異国で過ごす長い真暗な冬は、一人暮らしの経験さえない私には耐え難いものであったー当初クリスマス頃になると決まって体調をくずし、床上げの頃には外に出て誰彼かまわず喋りたい衝動にかられた――親に手紙を書いて、それ以後のお正月休みには日本に戻ることになった――

大学近くの左岸のカフェでは、真冬の早朝に学生がよく青白い顔をして本を片手にブツブツ云いながらコーヒーを飲む姿を見かけた 。かつて日本の大学は「入るのは難しく出るのは簡単」といわれたが、当地の学生たちは昔も今も、将来をかけて卒業のために猛勉強をしなければならない。 サントノーレ通りのブティックは学生が足を踏み入れる場所ではない――おしゃれをするのはmadameになってから――当時のフランスの学生はジーンズにセーター、化粧っ気もなかった。

社会的な階級の差によって行ける場所とそうでない場所があることも知った。
休日になると、映画やお芝居、演奏会に出かけたり、時にはオペラを天井桟敷で鑑賞する。教養を高め、自己啓発、自己研磨によって豊かな教養を身につけた大人になるためである。〈大人〉のステータスが高いのもフランスの主だった特徴である。バカンスにはワイン造りのための葡萄の収獲や酪農家の手伝いなど様々な職種を経験する若者達の姿に共感を覚えた。

風土と文化

季節感はその国の風土と結びつき、独自の文化を生み出す。
フランスは北海道と緯度がほぼ同じだが、雪はめったに降らない、だが、光のない冬は長い。したがって、その間は 根気のいる思索や創作活動にはうってつけである。
それがもしマイナス40℃まで下がるロシアとなれば、尚更であろう――トランジットで立ち寄ったモスクワ空港の、給油の際に窓越しに見えた真暗な銀世界は、時間が静止しているかのように見えた。生の鼓動がまるで感じられない――こうした自然環境だからこそ、芸術家が膨大な作品を書き上げる集中力と圧縮したエネルギーが生まれるのかもしれない、と思った

いのちの躍動

私が初めてフランスに行ったのは大学2年の夏休みであった。それはパリ近郊のフォンテーヌブローで夏の2ヶ月間開かれる《アメリカ音楽院》でギャビー・カサドゥシュのマスタークラスを受講するためであった。まさかそれがナディア・ブーランジェ先生が亡くなるまでの7年間、教えを受けるきっかけになろうとは、その時はまだ知る由もなかった。

夏の音楽院でブーランジェ先生の講義に参加したのは、誰もが受けられる《アナリーゼ》のクラスであった。ブーランジェ先生はアメリカでは神様みたいに崇拝されている存在だと皆が口を揃えていて興味をそそられたのだが、大きな部屋は大勢の人でいっぱいであった。

先生は先ず、ピアノの前に坐られて倍音を下から順番にていねいに積み重ねて弾いていかれた。その手は少し震えているようにみえたが、そんな懸念はまたたく間に打ち消された。
音は澄んで凛として、堆積した音は絶妙な加減で溶け合い、天井の高い石の建物に神秘的な残響が果てしなく派生していき心を奪われた。先生は、最後の倍音の響きが消えるまで余韻に耳を傾けておられた。

窓の外にはフォンテーヌブローの庭のすばらしい景観が広がっていた―緑の芝生は丁寧に刈られ、中央の丸池には白鳥が優雅に佇み、その向こうにはこんもりとしたフォンテーヌブローの森が広がっている。その隣のバルビゾンの森は、19世紀にはミレー等のバルビゾン派と呼ばれる画家たちが暮らしていた村があった。このお城はナポレオンが夏の別荘として住んでいたこともあり、その建築の着工期にはレオナルド・ダ・ヴィンチもイタリアから呼ばれて携わったらしい―
お城の建物はコの字型にシンメトリックに建てられ、片側はルイ王朝時代のきらびやかな家具が置かれて観光用に公開され、もう片側の建物では《アメリカ音楽院》と《エコール・デ・ボザール》《国立高等美術学校》が夏の2ヶ月間、開かれていた。
学院のある部屋には華美な調度品もなく、梁がむき出しまま、暖炉の跡があるだけのがらんとした殺風景な部屋に、ピアノが1台ずつ置かれていた。

《アメリカ音楽院》が開かれる2ヶ月間、ブーランジェ先生は、長年腹心の友として先生に仕え、パリ音楽院でソルフェージュを教えられ、アシスタントを務められたデュドネ先生と共にお城に住まわれていらした。
毎年6月になるとパリから50台以上のピアノが練習用と演奏会用のためにフォンテーヌブローに運び込まれる。参加者たちは2人で分け合ってこれらのピアノで自由に練習ができた。

エラール、プレイエル 、ガヴォー、スタインウェイー美しい景観を眺めつつこれらのピアノでショパンやフォーレを弾くと、時代をタイムスリップしていき、独特の音色と音の堆積の融和から自然とインスピレーションと情感が湧いて来るのがなんとも不思議であった。

フランスの樹木の緑色は、芽吹きの淡い黄緑色である。同じヨーロッパの樹木でもイギリスとフランスでは緑の濃さがちがう。イギリスは、日本に似た深緑が多い。
フランスのピアノは、やわらかい音色だが、響きは決してにごらない。エラールのピアノで紡ぐフォーレの複雑な和声は透明な響きになる。あの倍音の醸し出す雰囲気は、まさにそれであった。

初めてブーランジェ先生との個人面談の機会が訪れたとき、先生は私に「あなたの生まれ育った日本の音楽、邦楽は単旋律の作品が多い。西洋音楽のポリフォニーの縦の響きと、複声の横の流れを同時に聴き分ける耳を育てるために、あなたはピアノはさておき、和声とソルフェージュをさらに勉強しなければなりません」と言われた。

何百年も変わらぬ石の建築のなかで、倍音の刻々と変化するあの美しい余韻の響きと共に、ブーランジェ先生のことばが今もなお、耳に焼きついて離れない。倍音の刻々と変化していくあの美しい余韻の響きと共に、ブーランジェ先生のことばが今もなお、よみがえってくる。

2022.4.6 . 佐藤祐子

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