名古屋の音楽文化史(3)
日本の交響楽運動において、民間デパートの少年音楽隊などの活動が底辺となりその後の我が国の交響楽団の下地をなしていった、と西原稔が指摘するように※1、三越やいとう呉服店の音楽隊の設立は日本の交響楽運動史において重要な意味を持っていた。とりわけいとう呉服店少年音楽隊は、後に東京フィルハーモニー交響楽団に発展し日本で指折りのプロオケに変容しており、当時の少年音楽隊の一つのロールモデルとなったと言える。アカデミックな音楽教育を受けていない集団だったことを鑑みれば、音楽教育の機関としての機能を証明したと言えるだろう。ただその発展の要因は、整った教育システムなどではなく、黎明期らしく個人の理想と情熱にあった。音楽隊を設立した伊藤祐民から、土台を作った沼泰三、発展させた次期楽長の早川弥左衛門へと次々とバトンが渡され、3人の夢と思いが連綿と紡がれ結実したのだった。
伊藤祐民はアメリカ視察や三越の前例があったとはいえ、この時代に所謂メセナの考えを持ち、企業の社会還元を実践しており、先見の明を持っていた。後にNHK交響楽団コンサートマスターを長年務めた日比野愛次は「斯ういう営利会社があの時代、どうして音楽隊を作ったのか不思議に思うのですが、初代社長の伊藤次郎左衛門氏はなかなかモダンな方で、アメリカのデパートなどの見学でアイディアを仕込み名古屋に帰って音楽隊を作ったのであろうと思っています。現在の「企業の文化志向」を先取りした形で実現していることに、敬意を表さずにいられません」※2と語っている。オーケストラに発展するまで、音楽隊が紆余曲折を経ながらも解散の憂き目に遭わなかったのは、伊藤祐民に守られていたことが大きいだろう。
そしてこれまで沼泰三の功績はあまり語られることがなかったが、沼の基礎作りが奏功し、いとう呉服店少年音楽隊が音楽団体として確かな地歩を築いていったことは注目すべきことである。特に優秀な音楽家を初期の段階から多くの育てたことは、沼の最大の功績である。浅草エノケン(榎本健一)一座の座長として浅草派を牽引した栗原重一、後に東京音楽学校の教授になったヴァイオリンの栗原大治(重一の弟)に加えて、"船の楽士"や常設活動写真館の楽士など職業音楽家を務め中央交響楽団(後の東京フィルハーモニー交響楽団)に舞戻った船越孝昌、職業音楽家から新交響楽団(後のNHK交響楽団)を経てポリドール・オーケストラに入団した高麗貞通、さらに"船の楽士"からハタノ・オーケストラに加わり後に新交響楽団で活躍した中村鉱次郎などがいる。このように初期のメンバーは、活動写真(無声映画)の隆盛を背景に、東京にでて陸海軍軍楽隊や三越少年音楽隊の出身者等と肩を並べ職業音楽家として活躍した者が多かった。
少年音楽隊メンバー(PDF)沼は彼らが退団後に演奏家としてのスタートをきれるよう、職探しのためにかなり骨を折ったようである。少年音楽隊のメンバーの年齢制限はなかったものの5年契約で、長くても7年ほどだった。退団後、松坂屋(社員)に戻る者もいた一方で、演奏の道を志す者もの多く、結成から10年も経つと、青年となった彼らの道をどのように拓いていくのかという少年音楽隊特有の問題を抱えるようになった。退団した彼らの職探しを買って出たのが沼だった。1期生の船橋孝昌は1916年にストライキをおこし解雇された際に、沼が就職口を探した奔走してくれたと振り返り、そして高麗貞通も退団後の職探しで沼を頼ったと話している。実績のない彼らを就職させることは相当困難だったと思われるが、彼らの努力もあって音楽隊の演奏技術が認められるようになり、彼らが楽士の職を紹介し後輩が続くようになっていった。
上京した彼らを待ち受けていたのは、交響楽の夜明け前の、まさに混淆とした音楽の世界だった。現在のようなオーケストラがまだなかったため、演奏家が食べていくには、現場の要望に合わせてクラシックに限らず様々な音楽を演奏する必要があった。初見や編曲能力の高い、器用な演奏家が好まれた時代だった。
まず、上京後彼らの多くが経験した"船の楽士"に触れておきたい。"船の楽士"は、東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)の校長だった鈴木米次郎が、外国商船に楽士が乗船していることに目を付け、卒業生に職を与え、海外の音楽を見聞させることを目的に始めたもので、1912年8月4日横浜発、ホノルル経由サンフランシスコ行きの船に楽士を乗せたのが最初である。松坂屋出身者では、先に触れた船越、中村等のほか、丹下吉太郎、後藤義行も乗船し、少ない者で8回程度、丹下は最も多く24回も乗船した。楽士はやはり東洋音楽学校出身者が多かったが(波多野兄弟がよく知られる)、ほかに三越、海軍軍楽隊出身者などが入り交じっていた。1往復航海40日間で100種類のプログラムを演奏しており、同じ曲が続かないよう配慮していたという。目的地で入手した楽譜をレパートリーに加えるなど、初見や新しい楽曲の知識などを試される中で、彼らは強い横の繋がりを持つようになっていった。下船後、彼らの多くは浅草・神田を中心に隆盛を誇った常設活動写真館での伴奏や帝国ホテルの楽士として活動し浅草界隈で職を得ていた。当時、職業演奏家の要請と派遣を行う「大日本中央音楽団」(山田栄次郎代表)がそれらの現場に多くの楽士を送り出しており、音楽隊出身では高麗、栗原重一、船橋らが所属し、そして後に沼から楽長を引き継ぐ早川弥左衛門が顧問を務めていた。彼らは、一度演奏技術や適応力などを認められれば、不安定ながらも職を得ることができ高給で迎えられた。しかしながら、無声映画の隆盛は長くは続かず、1929年にトーキーが出現すると楽士はお払い箱となり、1933年頃までに全国で約5,000人の楽士が映画館から解雇されたという※3。
その一方で、1920年代半ばに交響楽の歴史が大きく動き出していた。近衛文麿と山田耕筰が立ち上げた日本交響楽協会が1925年 4月、ロシア人演奏家30余人を招いて日本人と合わせて70名ほどのオーケストラで「日露交驩交響管弦楽大演奏会」を開催した。この演奏会には音楽隊出身の中村、船橋が参加し、翌年日本交響楽協会※4から派生し発足した新交響楽団には高麗、丹下、中村らが入団した。
話を名古屋に戻そう。浅草界隈で盛り上がりを見せた活動写真の新しい風は、邦楽・俗楽が根強かった名古屋にも吹き込まれた。名古屋の人々は "動く写真"に魅せられ、活動写真は、江戸時代に邦楽・芸能文化の中心だった芝居に取って代わるようになった。『名古屋文化協會』に「近代都會生活者に取つて最も大きな享樂機関と云えば、斷然映畫舘である。〜芝居は映畫に代られて仕舞つた」※5と記されている。
名古屋での初お披露目は、1897年3月1日、芝居小屋「末広座」での試写会だった。映写機は1896年にトーマス・エジソンが発明したスクリーン映写型「ヴァイタスコープ」で、大阪の西洋雑貨商・荒木和一が輸入したものが使用された※6。「観客千五六百名あり中々の大人気」(3月3日)だったと『扶桑新聞』で報じられている。その後、1908年に常設活動写真館「文明館」(日本で3番目)が開館し※7、翌年に「電気館」、1913年「世界館」と続き、太平洋戦争前までに57もの活動写真館が開いた。その多くが芝居小屋から姿を変えたもので、世界館のように建物を全く新しくした館もあったが、多くが芝居小屋に少し手を入れただけで座敷や畳敷きの席があるなど芝居小屋の名残をとどめていた。歌舞伎など従来の名古屋の芸能娯楽を残しつつも、次第に一部が活動写真に置き換わっていったのである。
多くの映画館の中に、いとう呉服店少年音楽隊出身者が楽士を務めた劇場がある。千歳劇場(1921年)※8である。沼泰三楽長が「演奏者が足りない」と持ちかけられ、既に退団していた宮島島吉、栗原重一、高麗らに声をかけたのである。劇場では松坂屋出身者の他に海軍軍楽隊の出身者も含めて13、4名の楽士が在籍していたが※9、宮島や栗原がバンドマスターを務めていたこともあり松坂屋色が強かった※10。「映画館としては一番高級なところを目指して」(横井節之輔)いて、「一番優秀な音楽をやって」(栗原)いて、「松坂屋(少年音楽隊)の出店みたいなものだった」(高麗)と座談会で評している※11。当時の活動写真は上り調子の花形産業で、話の巧い活弁士に客が殺到し、今でいうスターのような扱いを受けた。伴奏音楽や休憩音楽を担当した楽士はそれほどではなくとも、やはり劇場は名古屋随一の腕を持つ彼らを好待遇で迎えたと考えられる。
「国立映画アーカイブ」NFAJデジタル展示室
第9回 戦前期日本の映画館写真(7)―神戸 名古屋篇より(ページをスクロールして中央あたり)
- 西原稔「「楽聖」ベートーヴェンの誕生」(2000)平凡社p.173
- 日比野愛次「松坂屋少年音楽隊のこと」
「(財)東京フィルハーモニー交響楽団 80年史」(1991)東京フィルハーモニー交響楽団よりp.198 - 1929年に映画伴奏用に絶え間なくレコード再生が可能な「ハーモニー・エレクトラ」という機械も登場し、同年トーキーの出現が決定的となり、1931年に国産トーキー第一号「マダムと女房」(松竹)から楽士の首切りが広がった。
- 山田耕筰は日本交響楽協会の楽員について、興味深いことを残している。50余名のうち東京音楽学校出身者は山田1人で、東洋音楽学校10人、素人9人、三越6人、海軍3人という具合で、他は楽壇で演奏してきた者だったという。
- 「名古屋文化協會」(1932)
- 1890年、アメリカのトーマス・エジソンの覗き眼鏡式の「キネトスコープ」(一人鑑賞用)に続いて、1895年にフランスのリュミエール兄弟が「シネマトグラフ」(複数名が同時に鑑賞できる投影型)が発表され、同年「シネマトグラフ」による世界初の興行が行われた。「シネマトグラフ」は、翌1896年末から1897年初めにかけて京都の紡績商・稲畑勝太郞によって日本にも持ち込まれ、「キネトスコープ」は神戸の鉄砲商・高橋信治により日本に紹介された。
- 1903年(明治36年)10月に開館した東京・浅草の電気館、1907年(明治40年)7月に開館した大阪・千日前の文明館に次いで、日本で3番目の活動写真常設館である。元々は、五明座という寄席であった。
- 江戸時代(1885)に建てられた芝居小屋「千歳座」を、1921年に松竹が活動写真館に建て替えた劇場である。盛り場の大須や大通りの広小路通りから離れた場所にあったこともあり、映画好きなインテリサラリーマンや学生がわざわざ足を運ぶ「名実ともに名古屋における高級殿堂」(伊藤紫英「シネマひるよる 改稿 名古屋映画史 8mmから70mまで」1984年4月より)だった。
名古屋では9番目の活動写真館で、当時高級とされたイタリア、ドイツ、スウェーデンなどのヨーロッパ映画を上映していた。 - 大森盛太郎(1986)「日本の洋楽[1]」新門出版社。千歳劇場の楽長が、「宮崎某楽長」と記されているが、おそらく宮島島吉のことと推測される。
- 栗原は、1923年には上京し浅草で根岸歌劇団の指揮をしていたという記録が残っており、千歳劇場の楽士の仕事は長くとも2年程度だったと考えられる。高麗は、1ヶ月程度在籍していたと語っている。
- 「いとう呉服店少年音楽隊に関する座談会」(1959)9月13日、東京本部(上野店)にて