名古屋の音楽文化史(2)
名古屋の西洋音楽の普及は、近代都市としての発展と少なからず関連している。ここで名古屋の近代化を推し進めた1910年の「共進会」について触れていきたい。「共進会」とは、博覧会のことである。県単位の品評会が「共進会」、複数の県が参加する場合は「連合共進会」と括られ、「連合共進会」は当時関東、関西、九州、奥羽の4つに分類されていた。愛知県は1899年の初参加以降「関西府県連合共進会」に毎回参加するようになった。
博覧会は、経済の資本主義化と歩みを共にしており、1798年のパリ産業博覧会以来、開催都市の近代化と密接に結びつき、急速に発展を促してきた側面がある。開催都市にとって博覧会は近代化の階段を歩む重要なイベントだった。しかも博覧会の開催規模が拡大し次第に集客を伴うようになったことで、本来の品評会の形に「PR」の要素が付加され「祭り」の様相を呈するようになり、開催都市が担う準備も大がかりになっていった。吉見俊哉が19世紀後半のパリ博について「決して博覧会場のなかだけで完結していたわけではなく、周辺の都市空間とも、またそれらの基盤であるパリという都市全体と結びついていた」と指摘するように※1、1889年のエッフェル塔建設然り、モニュメントや公園、鉄道・交通のインフラなどが整えられ、それに合わせて百貨店が博覧会の補助的な役割を担うことも多く、都市全体が博覧会を支えていた。日本の殖産興業政策に合致し、1877年に初めて内国勧業博覧会が開催されて以来、国主導、または自治体・企業主催で農産物、工業製品に至るまで種々様々な博覧会が頻回開催されていった。
1910年は、折良く名古屋開府300年の記念年であった。しかも共進会の参加自治体、出品数、出品者が増大していた時期だったこともあり、名古屋市は好機到来とばかりに集客を見込み大規模な準備を整えた。約10万坪を埋め立てた上で会場として無償提供することを決め、総経費約75万円を充てたのである。
共進会は大成功を収め、来場者は263万人(名古屋の当時の人口が40万人)を記録し、出品数は約13万点にのぼり、参加自治体は関西以外に中国、四国、北陸、さらに東京を含む3府28県となり過去最大の規模となった。開会日数も90日と、前回に比べ1ヶ月以上延び過去最長となり、明治30年(1897)代以降大型化が進んでいた共進会※2は名古屋で頂点を迎えた。
名古屋と共進会、そして西洋音楽を結びつける点が、開催前年に名古屋市長を会長にして組織された「名古屋音楽会」である。発足当時の記事からは、西洋音楽普及への意気込みが感じられる。
「名古屋市民はこれまで真の西洋音楽を耳にする機会が少なかったが、名古屋音楽会設立を機に、3都市(東京・大阪・京都)に次ぐ都市として、東西大都市に恥ずかしくない音楽団を作ろう、と力を入れつつあるそうだ」という内容である。この名古屋新聞の記事には、「共進会の閉会後も日比谷公園音楽堂を倣い週1回の演奏会を開くこと」を視野に入れていると記されており、西洋音楽を一時的にではなく永続的に名古屋に根付くよう考えられていたことが窺える。「名古屋音楽会」は、楽長に100名以上の生徒を抱えていた三田音楽院院長の三田正美を据え、日本屈指のヴァイオリン商の鈴木政吉らの尽力により腕のある楽手が集められた。会期中、会場となった鶴舞公園の広場から入ってすぐ正面に設けられた奏楽堂※4で三田正美が共進会のために作曲した行進曲の他、ヴァーグナー《タンホイザー》、グノー《ファウスト》などオペラの抜粋など西洋音楽を中心に150曲以上が演奏されたという※5。名古屋で公に結成された音楽団体が市民向けに西洋音楽を披露したという点においては、これが名古屋での西洋音楽の嚆矢になったといっても過言ではないだろう。
人でごった返す共進会の盛況振りを、殊の外うれしく見つめる男がいた。伊藤家15代当主である伊藤祐民である。祐民は、家業の「いとう呉服店」を株式会社化し百貨店「松坂屋」の礎を築いた人物である。共進会の名古屋開催決定を知った祐民は、「1910年の関西府県連合共進会に合わせて栄に百貨店を開業する」ことを着想した※6。しかし、まだ家業を継いでいなかった祐民が、百貨店の話を持ちかけたところ、当主であった父の祐昌、別家衆※7や幹部店員から猛反対に遭ってしまった。祐民を断念させるために祐昌が招集した重役会を受け、祐民は「もし、この計画が否決されれば、伊藤家の当主を嗣ぐことはご免こうむる」※8と不退転の決意を示し、祐昌に百貨店の開店を認めさせたのだった。「いとう呉服店」開店は近代都市名古屋の第一歩でもあり、祐民率いる「いとう呉服店」の初めの一歩でもあったのである。こうして、3月5日(共進会開会の10日前)に日本で2番目、近畿地方初となる百貨店が開店することになった。
6月13日、共進会は成功裏に90日間の会期を終えた。閉会から11日後、6月24日に祐民は上京の折に三越呉服店の日比翁助専務取締役と藤村喜七を訪ねた。三越は1904年に「デパートメントストア宣言」を発し、既に日本で初めての百貨店事業をスタートしていたことから、店舗を視察することが訪問の目的だったのだろう。松坂屋の社内報には、「(両氏が)店内を隈なく案内し、万般の設備に就き、諸多懇切に説明指導の労を執られた」※10と記録されている。
日比は三越百貨店発足時に代表専務取締役に就任した人物で、初期三越の経営の舵を取った。文化活動に非常に理解があり、百貨店は「文化活動を通じて利益を還元するべき」という理念を持ち、百貨店を「社会貢献の場」であると捉えていた。国民の文化的水準を高めるような活動であれば、来日した外国の要人※11を三越に招いて国民外交を展開し、外部の学者や識者による講演や欧米での見聞を聞く「流行会」を毎月開催、さらに店内でコンサートや展覧会を行うなど商売とは無縁と思われる活動であっても積極的に行った※12。音楽活動にも熱心で※13、1909年2月に結成された「三越少年音楽隊」も日比の発案であった。
日比らとの面会から約半年後、祐民は1911年3月に「いとう呉服店少年音楽隊」を結成させた。祐民は「三越呉服店」と「いとう呉服店」との関係を、当時ライバル関係にあったニューヨーク「メイシーズ」とシカゴ「マーシャル・フィールド」※14に例え、切磋琢磨しつつ共に日本の百貨店業界の発展を目指したいと抱負を抱いていた※15。それを踏まえると、祐民が音楽隊を着想するに至ったのはやはり「三越少年音楽隊」の存在があったと考えられる※16。
音楽隊の楽長には海軍軍楽隊出身の沼泰三(元釣)が迎えられた。沼は1882年に海軍軍楽隊に第2期として入隊※17、御雇外国人のフランツ・エッケルト等に師事し音楽を習得した人物で、1889年の退役後に、仲間と「東洋音楽会」を設立し後進を指導した経験があった。音楽隊のメンバーは、3月7日の「新愛知新聞」「名古屋新聞」で12〜14歳の少年を募集したが必要な人数が集まらなかった。そこで松坂屋からも人を駆り出し、初期メンバーとなる12名が決定した。
音楽隊のデビューは、結成からわずか1ヶ月後に開催された4月1日「開店1周年記念児童用品陳列会」である。演奏を習得するには短すぎる期間であるが、初期メンバーの船橋孝昌は当時の様子について、沼は初心者の教え方が実に巧く、決して叱ることがなかったと語っている※18。まずは少年たちに楽器を持たせて簡単な唱歌を楽器ごとに教え込み、演奏できるようになると合奏するという方法でレパートリーを増やした。急ピッチで間に合わせたデビューだったが、その後も歩を止めることなく活動を増やしていったことから、練習を重ねながら本番で場数を踏み、腕を上げていったものと考えられる。
ここで主な活動内容を年表で概観してみよう。結成から1938年の上京まで、音楽隊が行った音楽活動をまとめたもので、「いとう呉服店少年音楽隊のあゆみ」(J. フロントリテイリング史料館 菊池満雄氏による)、「いとう呉服店少年音楽隊に関する座談会」(J. フロントリテイリング史料館提供)、「東京フィルハーモニー交響楽団80年史」、いとう呉服店PR誌や小沢優子(2012)「明治40年代の名古屋の洋楽受容 −『名古屋新聞』の奏楽記事を中心に−」、小林貞弘(2018)「名古屋の映画館の歴史:1908-2015」※19などの関連書籍・論文を参照した。
年表からは、松坂屋の広報が主だった活動である一方で、運動会や祭りなど地域の行事でも演奏していたことがよくわかる。市民の生活に身近な存在であった点で、名古屋で音楽隊が出現したこの時期が、名古屋の西洋音楽の種まきの時期といえるのかもしれない。
- 吉見 俊哉(1992)「博覧会の政治学―まなざしの近代」中央公論社
- 清川雪彦(1988)「殖産興業政策としての博覧会・共進会の意義一その普及促進機能の評価一」『経済研究』一橋大学経済研究所
- 「名古屋新聞」1909年12月24日
- 鶴舞公園では、1912年に名古屋に設置された第3師団軍楽隊により、1915年から22年まで市民向けにクラシック演奏が披露された。
- 小沢優子(2012)「明治40年代の名古屋の洋楽受容 -『名古屋新聞』の奏楽記事を中心に- 」愛知県立芸術大学紀要
- 市役所があった栄の好立地の土地を名古屋市が手放すことになり、当主だった父の祐昌に購入を勧めたが、理由もなく購入することに疑義の念を抱かれなかなか首を縦に振ってもらえなかった(祐民はこの時点で計画を伝えていなかった)。土地が売れずに困っていた名古屋市のために、祐昌が「お困りだろうから」と折れたことで購入に至った。
- 主家である伊藤家を支える複数の家のことであり、大名家を支える家老の家のようなものだった。いとう呉服店の別家は世襲ではなく、番頭のなかから、人格、識見、商才、健康などあらゆる面で傑出した人物を選び、七人ほどの別家衆から構成され、当主と別家衆の合議で経営する方法をとった。
「十五代伊藤次郎左衛門祐民追想録」(1977)株式会社松坂屋発行 p37より
- 実際には祐民は会に出席せず、有能な腹心である謙三が手紙で様子を伝えていた。祐民はその返事で「万一不幸否決になれば、小子は現在のままにて主人役を引受ける事は平にご免に付き、松之助にでも譲り、小子は世外の人になりても……」と記したのだった。
- 『松坂屋50年史』(1960)松坂屋50年史編集委員会 編
- 松坂屋PR誌『モーラ』1910年8月号より
- 皇族、軍人や政治家等
- 玉川裕子(1997)「三越百貨店と音楽 —音楽と商業は手に手をとって— 」桐朋学園大学紀要
- 少年音楽隊のほか、三越の音楽活動は多岐にわたる。陳列場でのピアノとヴァイオリンの合奏(週2、3回)など音楽活動に取り組んでいた。その理由について、玉川裕子は、三井呉服店時代に高橋義雄が「ワナメーカー」(フィラデルフィア)を視察した時に音楽活動を見たことがアイディアの発端になったと推察している。
ワナメーカーは、1876年にアメリカで最初に音楽活動を導入した百貨店で、店内に小型オルガンを設置して、開店・閉店時に数曲の唄を流した。1890年代以降は、フィラデルフィア交響楽団による本格的なコンサートを企画するようになり、さらに自前のホールや、音楽団体を結成した。
- 1982年以降数度の買収を経て、現在はメイシーズグループに入っている。
- 台水「当社社長 三越を訪ふ」松坂屋PR誌『モーラ』1910年8月号より
- 祐民は、「渡米実業団」(団長・渋沢栄一)の一員として1909年に4ヶ月にわたりアメリカ全土を視察していた。視察時に、アメリカの百貨店と音楽活動の取り組みを見聞きしていた可能性はある。
- 同期に「日本の行進曲の父」瀬戸口藤吉がいた。
- 船橋孝昌「いとう呉服店少年音楽隊に関する座談会」1959年9月13日
「まず少年たちに楽器を持たせ」という沼の指導法については、1921年入隊の丹羽秀雄の手記「古稀回顧」には異なった記述がある。
「(沼先生から)『楽譜が完全に読めるまで一切楽器に手を触れるな』と宣言され、オタマジャクシとの悪戦苦闘が始まった」
途中で嫌になって脱走するほどだったというので、厳しく基礎をたたき込まれたのだろう。
二者の加入には10年の差があり(1911年船橋、1921年丹羽)、指導法が変化した可能性があること、そして初期は、1ヶ月後にお披露目が決まっていたため、素人の少年たちに楽器に慣れてもらうなど急いで準備する必要があり、沼が多くを求めなかった可能性がある。 - 河合文化教育研究所発行 p101より