名古屋の音楽文化史(1)
今回は金澤希伊子先生のお話の時代背景にまつわる連載です。 金澤先生から伺ったお話は筆者にとって示唆に富んだものでした。「名古屋は音楽の盛んなところである」というお話では「何故、名古屋は音楽が盛んなのか」が気になり、また「ピアノの他にお琴と三味線を習っていた」と伺えば、戦前の習い事事情について興味をひかれました。追加の調査により、名古屋で音楽が盛んな幾つかの理由と、さらに邦楽器と西洋楽器の習い事の変遷がわかってきました。プロローグとして、金澤先生の連載について理解を深めていただける回になればと思います。まず音楽文化が名古屋に根付いた背景を紐解きます。
名古屋は、興行地として恵まれた立地にある。東京と大阪の中間に位置し1889年に新橋—神戸間(東海道線)が開通した後は、交通の便の良さを味方に多くの音楽家を招き入れた。その中の一人、東京音楽学校教授の幸田延は1908年に公演のために初めて名古屋を訪れて、このように語った脚注1。(下線は筆者による)
「以前より、この地域が俗楽が盛んであると聞いていたが、実際に来てみると噂以上で驚いた。ここに洋楽が入り込むのは、必要なことであると同時に、非常に困難だろうと思われる」というのである。俗楽とは、一般に「近世から明治にかけて使われた語で、民間で行われた三味線音楽、箏曲、三曲、民謡、流行歌などを指す」脚注2が、幸田はどのような俗楽文化を見聞きしたのだろうか。
幸田が訪れた35年程前に、名古屋で少年期を過ごしていた文豪がいる。後にシェイクスピアの全作品を翻訳し、小説家・劇作家として名を残す坪内逍遙である。坪内は、高校生までの多感な時期に名古屋歌舞伎を見聞きし、それらを『少年時に観た歌舞伎の追憶』脚注3にまとめている。その中で、名古屋を「関東、関西の諸演藝の湊集所(貯水槽)である」と表し、さらに「(明治)維新間際の名古屋は、演藝史上、直ちに東京、大阪、京都に次ぐ処の重要な都會であつた」と言っている。坪内の証言通り、名古屋は3都に次ぐ演芸都市であり芸能文化が広く根付いていた。幸田は、興行で賑わう名古屋市街と人々が芸能を生活の中に取り込み、邦楽文化とともに享受する姿を目の当たりにしたと考えられる。
名古屋の俗楽・芸能志向の源流は江戸時代まで遡る※4。
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は1610年に名古屋城の築城に取りかかり、その城下に「武家屋敷の町」「町人の町」、そして「寺町」からなる町を築いた。これが、今の名古屋の原型である。「町人の町」を碁盤割にして城の南側に置き、清須(織田信長時代の尾張の首府)※5から刀や鉄砲の職人、さらに呉服、米、塩、瓦の商人約6万人を招致して店を構えさせ、「ものづくりともの売りの町」の基礎を作った※6。
「家康が築城した城と町を守る」という重い使命を背負ったのが、尾張徳川家である。尾張徳川家は徳川御三家の筆頭格として、16人の藩主が260年間安泰な治世を敷き、西に豊臣家を見据え、東には将軍家が控えるという、東海道を結ぶ防衛の重要拠点を守った※7。尾張の恵まれた財源も安定した政を支えた。藩の新田開発が奏功し、表高は65万石だったが実高は100万石近くあったと言われ、財政に余裕があったため税率が低く、江戸時代を通じて一度も一揆を経験しなかった。豊かな文化を育む環境が整っていたのである。
名古屋で芸能の芽が出るきっかけとなったのが、1664年に2代目光友が許可した橘町芝居(小屋)である。地方都市で最も早く公に芝居小屋の常設を許可された小屋として知られ、曲亭馬琴が旅日記『羈旅漫録』※8に「名古屋の芝居は橘町と大洲(※現在の大須)にあり」と記し、当時の賑わいを伝えている。その後、清寿院、若宮八幡、大須、七ッ寺、山王稲荷と芝居小屋が設置された※9。
7代目藩主徳川宗春の時代に、名古屋の芸能文化は花開き繁栄を極める。宗春が藩主になった1730年頃は、8代将軍徳川吉宗による享保の改革のまっただ中にあり、倹約令によりすべての藩は無駄な支出を抑えるように命じられ、吉宗自らも質素倹約を徹底していたほどだった。尾張でも節約を名目に町人の楽しみである祭りは簡略化され芝居も規制されていたが、宗春は吉宗の改革に真っ向から反発し規制緩和による経済活性化を目指した。特に芸に理解のあった宗春は名古屋東照宮祭を復活させ、禁止されていた武士の芝居見物を許可した上に、3つの遊郭の新設を許可し、女・子供が夜でも歩きやすいように提灯を数多く設置するなどした。その結果、宗春の時代に約60もの芝居小屋が生まれ※10、享保の改革下にあって名古屋の町は鮮やかな輝きを放った。「名古屋の繁華に興(京)がさめた」という言葉が生まれたのもこの時期である。
名古屋市博物館のホームページで宗春時代の名古屋を描いた絵巻が公開されている。「解説枠」をクリックすると、寺、遊郭、通りなどについての解説文がポップアップする。多くの人が描かれており、当時の賑わいが伝わってくる。
名古屋の隆興に反して、吉宗の倹約令により3都の歌舞伎は勢いを失っていった。役者が興行を求めて地方芝居出勤するようになり※11、こぞって足を向けたのが名古屋だった。名古屋は上方歌舞伎、江戸歌舞伎が入り混じるようになり、次第に風習や生活文化を取り入れた狂言、歌舞伎※12や浄瑠璃も生まれるなど独自性を発揮し、名古屋を拠点とする芸団※13や役者※14も見られ興行地として重要な位置を占めるようになった。興味深いことに、尾張藩士の高力種信の随筆『金明録』によると、観客は上方歌舞伎を中心とする文化圏の中に名古屋を位置づけ、上方の芝居を規範としていたところが窺えるという※15。都市から地方へ芸能文化が伝わる役者の移動も広範になり役者同士の交流が盛んになる中、三都の歌舞伎は均質化するかと思えば実はそうではなかった。各都市の特質を持ち続け、人々はその差異を認識していた※16。注目すべきは、名古屋の観客の反応だろう。特に初日(大入り)の役者へのあたりは厳しいものだったという※17。名古屋の歌舞伎文化には独自の気質が反映されており、それは他地域の文化とは区別されるものであった※18。
このように名古屋は3都からの芸の流れを受け入れつつ、江戸時代を通じて様々に形を変え独自の文化を確立しながらこの地に根付いていった。
- 「幸田女史と語る」『名古屋新聞』1908年4月25日
4月20日、22日、23日、24日、25日、27日と東京音楽学校の教授陣である幸田、藤井環(後の三浦環)、アウグスト・ユンケル等が御園座にて音楽会を行った。幸田の発言は、愛知県立高等女学校(現在の愛知県立明和高等学校)を訪問した際に記者に語ったもの。 - さらに「宮廷貴族の間で行われた雅楽、幕府や氏族の間で式楽とされていた能楽に対して呼ばれたもの」を指す。『標準音楽辞典』音楽之友社より
- 坪内逍遙(1920)『少年時に観た歌舞伎の追憶』日本演芸合資会社出版部。名古屋歌舞伎の成り立ちから当時の演目、劇場、役者まで200ページにわたり記した。保護期間が満了しているため全文を国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができる。
坪内は執筆にあたり、名古屋藩士、柳亭種彦系の考証家の小寺玉晁の随筆類が、教鞭を執っていた早稲田大学の図書館に所蔵されていたため、それを参考にしたという。 - 町民が名古屋城を中心に花開いた文化を享受したのは江戸時代だが、それより前、平安時代には熱田神宮を中心に限られた人々の中ではあるが、神楽や雅楽が盛んに行われていた。
「『熱田祭奠年中行事故実考』(1795年写)によると熱田神宮には、古くから尾張浜主を祖とする雅楽があり、その流れを汲む楽人の家が伝来の太鼓や面を継承していたと伝えている。」
『芸処名古屋』(2020)名古屋市より - 大阪、伏見、伊勢、近江などからも商人、職人が集められた。
- 『芸処名古屋』(2020)名古屋市
- 「特別史跡 名古屋城」ホームページ「知る」より
- 曲亭馬琴(1802)『羈旅漫録』。関西への旅行記をまとめたもの。名古屋に立ち寄った際のことも触れられている。
- 安田徳子(2009)「名古屋芝居の発生」『地方芝居・地芝居研究−名古屋とその周辺−』(おうふう)
- 『芸処名古屋』(2020)名古屋市
- 斉藤利彦(2012)『近世上方歌舞伎と堺』佛教大学研究叢書
- 宗春を主人公とした『傾城夫恋桜(けいせいつまこいさくら)』という歌舞伎も上演された
- 守屋毅(1981)「地方と歌舞伎」『三都』柳原書店
- 安田徳子(2009)「名古屋在の役者中山喜楽」『地方芝居・地芝居研究−名古屋とその周辺−』(おうふう)
- 神谷朋衣(2013)「近世の東海地方における地域文化の形成 —歌舞伎・浄瑠璃の受容と地芝居の上演を通じて—」WASEDA RILAS JOURNAL No.1(早稲田大学総合人文科学研究センター)
- 守屋毅(1981)『三都』(柳原書店)
- 高力種信『金明録』
- 神谷朋衣(2013)「近世の東海地方における地域文化の形成 —歌舞伎・浄瑠璃の受容と地芝居の上演を通じて—」WASEDA RILAS JOURNAL No.1(早稲田大学総合人文科学研究センター)
- 池山晃(1990)「芸能興行地名古屋の特色」『歌舞伎 研究と批評5』
- 鈴木光保(1990)「名古屋芝居管見 —小屋・役者・興行をめぐってー」『歌舞伎 研究と批評5』