ピティナ調査・研究

金澤希伊子 第2回 名古屋から東京音楽学校へ

金澤希伊子 第2回
名古屋から東京音楽学校へ
戦争と音楽学校受験

戦争が次第に生活に影を落とし始めていた。金澤が通っていた女学校では授業がなくなり、学生は軍需工場で弾作りに動員されることになった。

私はたまたまツベルクリン反応が陽転したことから、軽労働になり図書館に配属されました。図書館ではできるだけ本を読んでいましたね。手にした雑誌で安川加壽子先生の記事を目にしたことがあります。「日本語の練習をしていて、日本の文化に触れようと努力している」という内容で、お綺麗でこんなに素晴らしいピアニストがいらっしゃるんだなと思いました。

ピアノの練習にはずいぶん周囲に気を配ったという。

夜は明かりが漏れるとよくないと、窓に黒い幕をかぶせてほとんど真っ暗な中で弾いていました。音が漏れると「敵国の音楽を弾いている」と言われますから、ただひっそりと練習をしました。つらかったのは冬の寒さです。手が冷たいのでピアノを弾きづらく、レッスンの時もあまりの寒さに先生が紙を燃やして手や部屋を温めてくださるという状態でした。

三菱航空機、三菱発動機の軍需工場があったことから、名古屋は幾度となく大規模な空襲に見舞われた脚注1

学校も図書館などすべて焼けてしまいました。3月の空襲の時でした脚注2。それでもピアノは続けていました。先生のおうちが焼けてしまったため、こちらの家に泊まりがけで教えてに来てくださっていました。

出征時の井口基成。『わがピアノわが人生』(1977)芸術現代社p135
井口基成

井口のレッスンは、1945年3月に井口が召集され内地に出征したことから一旦休みになった。目標にしていた音楽学校受験が近づいていたが、金澤は何もするにもままならず、ひたすらピアノのことばかりを考えていたという。終戦を迎えたのは女学校4年の夏だった。3ヶ月後の11月に、井口が名古屋でコンサートを開いたため金澤は終演後の楽屋を訪れた。出征した時の坊主頭のままで、井口の顔には痛々しい傷が残っていた。「今すぐピアノを弾いてごらんなさい」と井口に言われ、客が帰り静寂に包まれたホールで練習してきたテンペストを懸命に弾いた。弾き終わり「音楽学校を受けたいんじゃないですか」と聞かれ「是非お願いします」と金澤が答え、再び受験に向けての練習が始まった。
例年3月に行われる入学試験は2ヶ月遅れ、5月にずれ込んだ。「終戦の混乱でなかなか入試の情報も伝わらず、ごく限られた人が知ることができたという状況でした。試験では第一楽章の展開部まででとめられてしまったのですが、二次試験は第一楽章全部を奏楽堂で弾くことができて、とてもうれしかったです」。そして5月17日に念願だった合格の知らせが届いた。

東京音楽学校に入学、そして安川加壽子門下第一期生へ

終戦翌年の混乱期で、五月にやっと入学試験が行われたものの、六月の新学期になっても授業らしいものは殆どなく、月末には『極度に悪化した食糧事情のため休校』という事態に陥り、不安な夏を過ごしていたのですが、やっと『新体制で授業再開』の朗報にはせ参じた若者たち。音楽に飢え、食料にさえ事欠きながら、しかし大きな期待と情熱に満ちあふれた顔また顔……。昭和二一年九月の、まだ暑さの残る日のことでした。
(金澤桂子(1981)「めぐりあい」『毎日新聞』10月15日)

金澤が入学する時点で、井口が東京音楽学校の職を退くことは決まっていたという。井口からは「素晴らしい先生を紹介するからね」と言われたが、それが安川加壽子と知った時は本当に驚いたという。「音楽学校に入ってなんとか卒業できればいいと思っていたところに、こんなチャンスが巡ってくるなんて大きな大きな喜びでした」。そして、入学式での安川との出会いをこう振り返った。

後ろのドアが開いてお姿を見ると、(安川先生は)紫の上下を着ていらして、ややおなかが大きくなっていらっしゃいました。ご長男をご懐妊していらして、もう8ヶ月目でいらしたと思います。先生の美しさは天女が舞い降りたかと思うほど。その時は、ただただ先生方を拝み見るように新鮮に感じていました。

安川加壽子(右)と金澤。金澤桂子(1975)「わが師を語る55 いまを生きること 安川加壽子/井口基成」『レッスンの友』10月号p.43より

最初のレッスンは緊張の連続だった。「平均律のfis-mollを弾きました。少し弾きだしたところで、大きく手で拍子を取ってくださった。それから『ひっかけないように』と仰いました。『ひっかけないように』は、“ミス・タッチをしないで”という意味ですね。ただ夢中でした」。
安川はあまり多くの指示を出さなかった。17歳までパリで育ったため、フランス語が第一言語で当時はまだ日本語に不自由していたこともあったのだろう。それでも金澤は不満に感じることはなかった。井口から「とにかく真似をしなさい。たくさん話す方ではないし、あまり笑うこともないけれど、気にしないで真似をしなさい。人間としても女性としても立派な方だから」と言われ、それを忠実に守っていたためである。「自分で探そう探そうとして、完全な“追っかけ”でしたから。髪型まで先生の真似をして『似てる、似てる』と言われたりしました」。
その一方で、やはり門下生はこれまで学んできたこととの違いに戸惑った。「力を抜く(腕の脱力)という指導は、それまであまりありませんでした。p(ピアノ)の弱い音がどれくらい大切かということを初めて知りました」。腕の柔軟性を優先すると、指が弱くなったように感じたという。「それで不安に感じた先輩もいるようでした。かといって先生はあまり細かいことはおっしゃらなかったですね」。他方金澤は、井口から進言された“安川を真似する”方法で、そうした壁にぶつかることなくごく自然に安川のピアニズムを吸収していった。金澤ら安川門下1期生は、安川が帰国後に大学で初めて指導する生徒ということで安川家の方から「一年生、一年生」と呼ばれ、金澤は安川のお嬢さんたちと遊んだりしてレッスン以外にも交遊した。

安川と門下生。金澤桂子(1975)「わが師を語る55 いまを生きること 安川加壽子/井口基成」『レッスンの友』10月号p.43より

金澤が安川のピアノから強い印象を受けたのが、スピードと軽やかさだった。「オクターブの連続でも軽々と弾かれます。幼い頃、初めて先生の演奏を見たときは『こんなにも楽に弾けるんだ』と驚きました」脚注3。安川の軽やかな演奏は、日本の楽壇でも驚きをもって受け止められた。音楽評論家の大田黒元雄は、「現在の日本人として最高の技巧を持っている」と賛辞を贈り、「巧妙なタッチによる音質の変化、歯切れのよい和音の弾き振り、速いパッセエジの鮮やかさ」を演奏の特徴として挙げた。しかしその一方で、安川の演奏で面を食らうのは「叙情的な暖かな曲を弾き去るテンポの速さ」であり、「われわれのものとはちがった世代の新しい解釈なのである」というように理解を示した脚注4

金澤が研究科に進学してから、音楽学校で印象に残る出来事があったという。

研究科に入った頃は、クロイツァー先生が学校で教えていらっしゃいました。1年の試験の時にアパッショナータを弾いたのですが、たまたまクロイツァー先生が聴いておられて、とても褒めてくださったのです。俄にクロイツァーの機嫌が良くなり、フランス語で「大きな才能がある」って仰ってくださったと伊達純先生から伺いました。曲のアプローチが全く異なる異国の巨匠の言葉は大きな力となりました。

そして翌年、金澤は研究科を首席で卒業した。

  • 空襲は60回にのぼり、死者は約8千人、負傷者約1万人、罹災者は約52万人もいた。愛知県警察本部「愛知県警察史」より
  • 3月は11〜12日、19日、24〜25日の3回にわたり大規模空襲が行われた。
  • 金澤は安川に師事する前に安川の演奏を聴いたことがあった。「名古屋で先生のコンサートがあり、《英雄ポロネーズ》を弾かれたのだ。オクターブの連続など難しいところがたくさんあるのに、テクニック上の無理がまったくない自然な弾き方(だった)。」と後に振り返っている。金澤桂子(1975)「わが師を語る55 いまを生きること 安川加壽子/井口基成」『レッスンの友』10月号p.42より
  • 1941年4月26日『東京朝日新聞』1941年4月24日の日比谷公会堂での帰国リサイタルのレビュー。秋山龍英(1965)『日本の洋楽百年史』第一法規出版p.541より