ピティナ調査・研究

金澤希伊子 第1回 ピアノに憧れて ー恩師との出会いー

金澤希伊子 第1回 ピアノに憧れて ─恩師との出会い─
金澤希伊子

金澤 希伊子 先生は、戦前に井口基成先生に師事され、終戦翌年(1946)に行われた東京音楽学校の試験に合格し、安川加壽子門下の一期生として研鑽を積まれました。その後、研究科を修了後に渡仏しラザール・レヴィ氏から薫陶を受け、帰国後は桐朋学園大学や東京藝術大学で教鞭を執り多くの俊英を育てられました。
戦後日本のピアノ教育の礎を築いた井口基成と安川加壽子の二人に学ばれた貴重な経験、そして第一線で戦後日本のピアノ教育に関わってこられたことについてお話を伺いました。当時の時代背景を交えて紹介していきます。

  • 金澤先生は、2000年に桂子から希伊子に改名されました。それ以前の出版物では桂子と表記されているため、引用箇所では桂子と表記しています。また、出版物で名字が金沢と表記されていることもありますが、正しくは金澤です。

ピアノへの憧れ

金澤の最初のピアノの記憶は、幼いときに触れたおもちゃのピアノだった。「ピアノを習いたかったのですが、今と違い昔はそう簡単には始めることができず、しばらくは遊びながら弾いていました」と話す。父はロンドン大学で博士号を取得した経済学者で、帰国後一橋大学に奉職したが、金澤が4歳の時に亡くなったため、母と共に実家の祖母がいる神戸に居を移した。近所に住んでいた叔母の家に、当時珍しかったピアノがあったので、遊びに行っては弾いたり楽譜の読み方を習ったりしていたという。小学2年の時に母の郷里の熊本に引っ越し、そこで東京音楽学校で声楽を学んだ城先生に巡り会い、念願叶ってピアノを習い始めることになった。「よく歌って楽しくレッスンをしてくださる先生でした。今思うと導入期には案外それが良かったと思いますね」と金澤は振り返る。

名古屋で一番厳しい先生

小学4年で名古屋に移ると本格的にピアノの道が開ける。父の学生時代の恩師の家を訪れた時に、東京音楽学校を卒業したお嬢さんにピアノを聴いてもらえることになったのである。しかし、演奏が終わるや否や「このままでは駄目だわ」と言われ、その場で先生を紹介してもらうことになった。当時、"名古屋で一番厳しい"と評判の先生で、東京音楽学校を卒業したばかりの小津恒子(当時は、旧姓の大橋)だった。金澤は「凄い情熱をもって教えてくださり、厳しすぎることもありましたが、それはありがたかったです」と話す。「小津先生はいろいろ簡単にやってしまうことがお嫌いで、ツェルニー30番も既に終わっていましたが最初からやり直しました。『ピアノの練習に集中できなくなるから』と、学校で伴奏をすることや、他のお稽古や学校の遠足さえ禁止されるようなこともありました脚注1」。
引っ越し先の名古屋は、運良く音楽が盛んな土地だった。「昔からそうですが、今でも受験生のレベルが高く、名古屋からくる学生はとても優秀ですね」と金澤。名古屋は、昨年特級でグランプリをとった亀井聖矢が学んだ明和高等学校など、音楽科を有する高校が3つ、そして大学は名古屋周辺まで含めると、愛知県立芸術大学、名古屋音楽大学、金城学院大学、名古屋芸術大学と複数の選択肢がある。教育のレベルも高く、優秀な指導者が揃い学習者の層も厚い。全国に誇るレベルの高さは、小津をはじめとする先人たちの努力が実り形になったものである。

南山大学のホームページに小津恒子とラザール・レヴィ、安川加壽子、原智恵子らが一緒に写った写真が掲載されている。
南山大学「南山大学国際交流の歴史と文化活動」より。「南山大学の発足」の写真2段目右に掲載。 小津は、後に愛知県立芸術大学脚注2でピアノ科主任まで務め、多くの受験生を東京の音楽大学へ送り込み、戦前から名古屋のピアノ教育の先駆者として重要な役割を果たした。

井口基成との出会い

 金澤は、中学1年の2月に小津から井口基成を紹介され、東京音楽学校受験の準備のため月1回レッスンを受けるようになった。「レッスンは楽しい記憶しかありません。井口先生は生徒の扱いが本当にお上手で、あるときは厳しく、あるときはおだて、生徒のやる気を起こさせてしまうのです脚注3」と話す。演奏者として抜群の知名度を誇った井口に教えを乞う学習者は多かった。「我も我もと習いに行きました。習っているというだけで自信ができました。そういう魔力のようなものが確かにありました」。随一の指導者に学ぶ機会を得て、練習はさらに充実していった。井口は、名古屋での指導について晩年にこう振り返っている。

 初めのうちは名古屋の方はとても少なくて、たった二人きりの時もあり汽車賃も出ないこともあったが、ぼくはいわゆる手弁当で毎月通っていた。そのうち次第に生徒もふえてきた。~(中略)それが昭和9年(1934年)からずっと今もって続けられている。その中から何人も上野の学校に入れる生徒を育てたり、桐朋にも受かる者も仕上げた。中には現在ピアニストとしてステージで活躍している人も大勢出ている。京都、名古屋、大阪のピアノ指導はぼくの仕事の一つとなって続けられて来たわけだ。脚注4
(井口基成『わがピアノ、わが人生 音楽回想(メモワール)』(1977)芸術現代社)

 金澤は小津恒子と井口基成に師事し、名古屋から音楽学校を目指した最初の頃の生徒だったが、その後もピアノの道を志す者が続き、同門から小林仁脚注5、三浦みどり脚注6、松岡三恵脚注7と優秀なピアニストが育った。三浦はレッスンで小津の家を訪れた時に金澤の演奏を聴いていた。「こっちはまだ小学生の頃で、あんな難しそうな曲をこんなに上手に弾けるなんて偉いなぁと賛嘆の眼で眺めていた」脚注8という。

  • 「せんせいこんにちは116金沢桂子先生」(1975)『レッスンの友』レッスンの友社
  • 1968年4月1日から1983年3月31日の間在職。
  • 「金沢桂子先生をおたずねして」『わたしたちの音楽』(1969)5月号
  • 田中正史『わが師 井口基成 どてら姿のマエストロ』(1997)には、井口が晩年に大病を患った後、杖をつき、周りの人に支えられながらも、大阪にレッスン指導に赴いていた様子が書かれている。
  • 「三重県の生んだピアニストであり、その基礎の底辺をつくったのは名古屋の名教授、小津恒子である。東京中心の音楽界としては、珍しいケースといっていい。東京藝大で小津と同系統の井口基成に師事した。」「日本の音楽家」『音楽の友』(1968)10月臨時増刊号より。
    ※大学で井口基成に師事したという箇所は誤りである。小学生から井口基成に師事していたが、小林の大学入学時には既に井口は退官していた。
    1956年日本音楽コンクール1位。
  • 1952年日本音楽コンクール2位。
  • 名古屋出身。桐朋学園女子高校音楽科を卒業、東京音楽学校を経て、フランス政府の給費留学生試験に合格し、パリ国立高等音楽院で3年間学び、一等賞を得て卒業した。1954年日本音楽コンクール1位。
    1986年に録音した音源が、2016年7月にCD化された。
  • 「インタビュー 三浦みどり先生」『our musicわたくしたちの音楽』