ジェームス・ダン物語 第4回(最終回)
1925年9月、海軍軍楽隊との共演を終えたジェームスは、翌月帝国ホテルで行われたアンリ・ジル=マルシェックスの演奏会に足を運んだ。マルシェックス(来日時31歳)は、ルイ・ディエメ、アルフレッド・コルトーに師事し、パリ音楽院を首席で卒業したピアニストである。演奏会の前評判はすこぶる高く、その理由は意欲的なプログラムにあった。クープラン、ラモー、バッハ、スカルラッティのバロック作品に、モーツァルト、ベートーヴェンの古典作品、ショパン、シューマン、リストなどのロマン派、ドビュッシー、ラヴェル、フランス六人組、ファリャ、アルベニス、ストラヴィンスキーなど近現代まで全63作品に及び、そのうちの33曲が日本初演であったという。演奏作品、及び初演作品の多さ、時代の幅広さなどの点で、西洋音楽の受容が進む大演奏会だった脚注1。ジェームスが聴いた第2夜目(10/11)を含めて全6夜の演奏会には、作曲家の松平頼則や清瀬保二、柴田南雄、音楽評論家の野村光一、中島健蔵、小松耕輔、そして小説家の梶井基次郎らも来場した脚注2。
ジェームスは「読売新聞」に演奏会評を書き綴っている。(下線は筆者による)
私はヂル・マルシェックス氏の名は在歐中から聞いてゐたが演奏を聽いたのは十一日が初めてだつた、そして豫期してゐた以上の腕を持つてゐるので嬉しくなつてしまつた。~彼のテクニックは最も理想的なものだと私は思ふ。例へばフオルテの場合、自分の總ての力が兩腕にかゝつて鍵盤の上に落ちて行くピアイツシモの場合も、身全體から出してゐるピアニツシモで指先だけのものではないのだ脚注3。
ジェームスは、レビューの中でモーツァルト、ベートーヴェンの演奏を称揚しているが、特にシューマンについては「美しい主題に出て來る左手の十度を樂に押してゐるには羨ましかつた。〜エチュードの四の速い和音の連續、エチュードの五の輕いオクターヴなど氏の演奏を聽いて學ぶところが多かつた」と演奏家として尊敬の念を綴った。
ジェームスはどのような作品を弾いていたのだろうか。新聞記事一覧でみるとバッハ《イタリアンコンツェルト》、モーツァルトソナタ11番、ベートーヴェンソナタ21番「ワルトシュタイン」、リスト《ハンガリー狂詩曲》、ショパン練習曲5番「黒鍵」など、いわゆる定番曲を弾いている。演奏会ではバロック、古典、ロマン派作品に、時代の新しい、当時まだ弾かれていないような作品まで4つ時代の偏りがないことから、時代区分を意識して選曲していたと思われる。新しい作品としては、ファリャ、アルベニスのスペイン作曲家に、ミヨー、プーランクのフランス六人組、そしてガーシュインまで含まれており、演奏会の合間を縫って練習していたジェームスの向学心がうかがえる。
帰国以来、絶え間なく演奏会を続けていたジェームスだったが、1930年代後半に入り回数が減っていった。それは楽壇の変化と無関係ではなかっただろう。音楽評論家の三善清達脚注4はこう語っている脚注5。
昭和6年に満州事変があって軍部がだんだんと横暴になってくる、そして昭和10年代になると、12年に日中戦争が始まったというようなこともあって、洋楽が圧迫されだした。これを洋楽の方からいえば、だんだん暗い状態になっていったと思うんですよ。つまり、暗黒時代ですね。
満州事変は、関東軍が軍事行動により満州を侵略した事件である。1932年に軍は満州国を建国、日本は1933年に国際連盟を脱退し、ついには1937年に日中戦争開戦と戦争に飲み込まれていった。1940年10月に大政翼賛会が結成、翌年には情報局により「日本音楽文化協会」が設立され、音楽職能者はそれに統轄されることになった脚注6。演奏会も検閲を受け内容によって中止を言い渡されることもあった。一方で戦時体制の強化を目的に愛国的な作品が推奨され、山田耕筰、信時潔ら多くの作曲家が軍歌や行進曲を手がけた。
ジェームスの演奏会が少なくなる一方で、ジェームス門下の紹介記事を通じてジェームスの指導の成果を垣間見ることができる。太田節子(当時16歳)という生徒が第4回日本音楽コンクール2位に入賞したり、小学生の生徒がジェームスの指揮でモーツァルトの協奏曲を演奏したりし生徒が着実に育っていた。神谷美恵子(後に精神科医となった)もジェームスに指導を仰いでいた一人だったが、1931年にジェームス門下生の発表会でショパンのバラードを弾いたことが野村一彦の日記に記されている脚注11。ジェームスは自宅で多くの生徒を引き受けていたこともあり、「始めの間は家内(道子)が週2回で教えますが、私は週1回、1時間教える」脚注10方法で、基礎を道子が指導し、ジェームスが引き継ぎピアノの道筋をつけていた。
ジェームスの戦前最後の演奏会は、1940年12月6日「朝日新聞」に載った日本大学での藝術合同葬である脚注7。この時期にジェームスは、放送局で片かなの名前が問題になってきたこともあって日本名に改名した。そのいきさつをこう語っている。(下線は筆者による)
戦争も日増しに進行して來たし、軍部の勢力はますますすさまじく、さらでだに洋樂家、その上、片かな名前ときている。うるさくなることはわかりきつている。今のうちに變えておいた方が、どうせ變えさせられるのだから早いほうがいいではないか、との友情からの話脚注8。
結局、ジェームスの名前は放送局の名簿から外されたが、改名前に既に放送局が名簿から外していたというのが実情だった。翌年1941年12月8日に真珠湾に奇襲攻撃を仕掛けた後に日本が米英に宣戦布告し太平洋戦争が開戦した。
三善 昭和16(1941)年12月8日に太平洋戦争が始まったわけですが、その頃、音楽文化協会が"アメリカ・イギリスの曲は演奏しない、ただ日本化している《蛍の光》とか《埴生の宿(ホーム・スイート・ホーム)》はやっても構わない"という答申を出したけれども、実際には何もやれなかったそうですね。
中島 そりゃそうだよ。なにしろ当時は"鬼畜米英"だったからね。ただ幸か不幸か、イギリスとアメリカが全部なくなってもプログラムには全然困らない。
野村 フランスも新しいものは駄目になったな。何しろドイツ、イタリアと同盟を結んでいたわけでしょう。だからユダヤ人は駄目だったけど、ドイツのものをやってりゃいい。ことにベートーヴェンなんかは精神作興になるというので大歓迎だよ。脚注9
1943年の学徒動員により学生が駆り出され、日本大学の授業は休止を余儀なくされた。ジェームスは戦況が悪化するにつれ、日課にしていた8時から12時までのピアノの練習も敵わなくなった。「隣人の目」が厳しくなり自己防衛をする必要があったためである。さらに多くの二世と同じように、外国人として迫害されないよう英語を話さず、西洋風の洋服を着用せず目立たないように暮らした脚注12と考えられる。不自由な生活の一方で、二世であるジェームスは憲兵隊の監視を受ける対象ではあったが、扱いは日本人と同じで、レオニード・クロイツァーやヨーゼフ・ローゼンシュトック(共にユダヤ人)等外国人音楽家のように、収容所、強制疎開、自宅軟禁を受けることはなかった脚注13。
1944年からアメリカによる日本本土への空襲が始まり、ジェームスは一人の友人を失った。鈴木二三雄が実家の名古屋の工場で爆死したのである。チェロ奏者の二三雄とジェームスは、ヴァイオリンの小林武光と共に "DSKトリオ"(メンバーの氏名、D:ダン、S:鈴木、K小林と思われる)を組み1934年、36年に共演していた。二三雄は、東京交響楽団の首席チェロ奏者や作曲家脚注14として活躍し、世界でも類を見ない鎮一、章、喜久雄の四兄弟で"鈴木カルテット"を結成していた。実家は父の政吉が創業した鈴木ヴァイオリンを営んでおり脚注15、万国博覧会にヴァイオリンを出品するなど日本楽器(現在のヤマハ)とともに戦前日本の楽器製造を代表する会社だったが、1937年から工場で砲弾箱などの軍需木工品を生産するようになり1943年からは航空機部品の製造を行っていた脚注16。二三雄は、1944年に名古屋に戻り本社監査役に就任していたのである。戦争はこのように才能豊かな若者の命を、そしてジェームスから仲間を奪った脚注17。
さらに1945年5月25日の大空襲によって、ジェームスは玉川の借家に保管していたグランドピアノ2台と多くの楽譜、そして父エドウィンの遺品も失った脚注18。
終戦を迎え、日本は新しい時代を歩み始めた。しかしジェームスは、戦前に築いた楽壇の場所には戻らなかった。演奏会を行った可能性はあるが、表立って残っている記録は見つからなかった。どの日本人もそうだったように、戦争がジェームスの世界を変えてしまった。1943年以来閉鎖となっていた日大芸術学部のレッスンが再開し、徐々に大学に生徒が戻りジェームスに師事する門下生が増えてきた矢先、1950年4月2日ジェームスは脳出血のため帰らぬ人となった。妻の道子との間に子どもはなかった。多 美智子の母であり、日本大学で教鞭を執っていた粕谷喜久子が道子の病床を訪れた際に、道子から「大学に寄付しジェームス・ダンと道子の名前を付けた奨学金の基金としたい」という申し出があり、「ジェームス&道子・ダン奨学金」の創設に至った。1987年から現在までピアノコースの優秀な学生が選ばれ奨学金を受け取っている。
ジェームス・ダン、道子夫妻の取材に際して、エドウィン・ダン記念館の園家(そのけ)廣子さんにダン一家とジェームス・道子夫妻に関する貴重な資料をご提供いただきました。また、日本大学の瀧田寧(やすし)准教授よりジェームスと日本大学の記事内容に関してご助言を賜りました。御礼申し上げます。
- マルシェックスの演奏会に関する資料:野村光一(1975)『ピアノ回想記』音楽出版社、野村光一、中島健蔵、三善清達(1978)『日本洋楽外史』ラジオ技術社、佐野仁美(2010)『ドビュッシーに魅せられた日本人』昭和堂、白石朝子(2010)「アンリ・ジル=マルシェックスの日本における音楽活動と音楽界への影響 —1925年の日本滞在をもとに— 」愛知県立芸術大学紀要
- 白石朝子(2010)「アンリ・ジル=マルシェックスの日本における音楽活動と音楽界への影響 —1925年の日本滞在をもとに— 」愛知県立芸術大学紀要p.252
- ジェームス・ダン「主観的音樂第二回演奏會」読売新聞1925年10月18日
- 東京音楽学校の元学長。作曲家三善晃の兄。
- 野村光一、中島健蔵、三善清達(1978)『日本洋楽外史』ラジオ技術社p264
- 秋山邦晴(2003)林淑姫編集『昭和の作曲家たち —太平洋戦争と音楽— 』みすず書房p.27
- 日本大学芸術科企画部長の三井市太郎が亡くなり大学葬を行った。
- ジェームス・ダン(1950)「十年前の今月今日」『音楽芸術』2月号p.57
- 野村光一、中島健蔵、三善清達(1978)『日本洋楽外史』ラジオ技術者p270
- 「お稽古事に上達するコツを語る座談会」(1933)『婦女界』4月号 p.318
- 野村一彦(2002)『会うことは目で愛し合うこと、会わずにいることは魂で愛し合うこと』のこと。野村一彦は、"あらえびす"こと野村胡堂の長男である。エドウィン・ダン記念館の園家さんが偶然本を手にし、神谷美恵子がジェームスに師事していたことを突き止めた。 園家廣子(2017)「ダン雑記(3)〜エドウィン・ダンの息子達〜」『ベーマー会報』第5号9月30日発行 p.18
- バクストン A・カーリー(2016)「さまざまな色合いの抑留 —大日本帝国における戦時下の敵国民間人の抑留— 」『立教大学21世紀社会デザイン研究』p.51、52
参考文献:小宮まゆみ(2009)『敵国人抑留 —戦時下の外国民間人— 』吉川弘文館 - 「二世はスパイ活動の容疑では、ほとんど逮捕・収容されなかった」。バクストン A・カーリー(2016)「さまざまな色合いの抑留 —大日本帝国における戦時下の敵国民間人の抑留— 」『立教大学21世紀社会デザイン研究』p.52
- 東京音楽学校でチェロを学びドイツに留学した後、弦楽四重奏の編曲も手がけた。1930年の新興作曲家連盟(現在の日本現代音楽協会)の発足時メンバーに名を連ね、第一回試演会で弦楽と歌の五重奏《紫》を鈴木カルテットで披露している。新興作曲家連盟第一回試演会では《紫》のタイトルで発表しているが、清瀬保二が試演会の作品が、「源氏物語にちなんだ歌曲だった」と語っていることから、《紫》を後に組曲《源氏物語》として発表したと考えられる。
- 鈴木カルテットは、4人とも父親の手による楽器を使用していた。
- 井上さつき(2014)『日本のヴァイオリン王 —鈴木政吉の生涯と幻の名器— 』中央公論新社p.314
- 二三雄については、井上さつき(2014)『日本のヴァイオリン王 —鈴木政吉の生涯と幻の名器— 』中央公論新社、秋山邦晴(2003)林淑姫編集『昭和の作曲家たち —太平洋戦争と音楽— 』みすず書房に記述がある。爆死については、『中日新聞』2012年8月14日夕刊で取り上げられた。
- ダン道子(1968)『明治の牧柵』ダン道子後援会p.115