ジェームス・ダン物語 第3回
ジェームスは、東京音楽学校の研究科を修了し1922年渡独した。ワイマール共和制末期のドイツのベルリンは、第一次世界大戦敗戦による後遺症で猛烈なインフレーションに見舞われていた。この時期ベルリンに留学していたスズキメソードの創設者・鈴木鎮一によると「やがてヒトラーが出なければならないような、あの大戦争が起こらなければどうしようもないような、恐ろしいインフレと悪質な内外人の跳梁」注釈1だったという。その一方で、ドイツの文化は充実した時代を迎え「黄金の20年代」と称されるほど大きく花開いた。新しい時代を築こう”と若い力が動き出し、1921年ベルリンでアルノルト・シェーンベルクが十二音技法による作品を発表し、ワーグナーで頂点に達した調性音楽から脱却し近現代への道筋をつけた。新即物主義(ノイエ・ザッハリヒカイト)がドイツで興ったのもこの時代で、美術を中心とした運動だったが、音楽にも波及し演奏者の過度な表現主義から立ち返り、作曲家の意図を汲み楽譜の通りに弾くことが見直されていった。ドイツのオーケストラもまた黄金期を迎え、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがベルリン・フィルハーモニーの常任指揮者になり聴衆を惹きつけた。
ジェームスが居を構えたところはシェーネベルクのヘルム通りといって文化の中心クーダムにも近く、若い日本人音楽家の巣といったところだった注釈2。ジェームスの他に斎藤秀雄(桐朋音楽学園創設者)、高折宮次(後の東京音楽学校教授)らが滞在しており、シェーネベルクの若者は日々集まってはモーツァルトやチャイコフスキーを連弾したり、協奏曲の研究に余念がなく、音楽的刺激のある日々を過ごした注釈3。
ジェームスは、ピアノをベルリン国立音楽学校(現在のベルリン芸術大学)でリヒャルト・レスラーに、作曲をジングアカデミーのゲオルク・シューマンに師事した。リヒャルト・レスラーは、ベルリン王立音楽院に学びヨーゼフ・ヨアヒム注釈4に見いだされ母校でピアノを指導したピアニスト・教育者である。バッハの演奏で知られ、1920年代以降はピアノの室内楽作品を多く遺した注釈5。
ゲオルク・シューマンは、指揮者・ピアニスト・作曲家でプロイセン芸術アカデミーの院長を歴任しベルリンの楽壇で影響力を持った人物である。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と定期的、かつ長期にわたりの共演したピアニストの一人として貢献し注釈6、作曲でも才能を発揮し交響曲、室内楽、声楽などの名作を生んだ。日本人を多く指導し、新交響楽団(現在のNHK交響楽団)を指揮した近衛秀麿(ジェームスと同じ時期に師事していた)、東京音楽学校の作曲科創設に尽力した信時潔、新興作曲家連盟(現在の日本現代音楽協会)を創設し初代委員長を務めた箕作秋吉、「スルヤ」を設立した諸井三郎ら、日本の作曲界ドイツ派と呼ばれる人々の源流となった注釈7。
1924年にドイツから帰国したジェームスを日本の楽壇は歓迎した。最初に帰朝公演でジェームスを迎えたのが慶応ワグネル・ソサィエティーである。慶応ワグネル・ソサィエティー注釈8は1902年に第一回演奏会を開催している古い歴史を持つ団体で、当初は演奏団体を招いて演奏会を開いていたが、1920年代に入り自分たちで演奏会を開催できるようになった注釈9。ジェームスとの共演の1年前には、東京音楽学校のグスタフ・クローン(1874-?)注釈10をヴァイオリン独奏者に迎えベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を披露している注釈11。ジェームスの帰朝公演では、サン=サーンス《ピアノ協奏曲》第2番とベートーヴェン《ピアノ協奏曲》第3番を披露し、アマチュアとはいえレパートリーで求められる演奏レベルは高く、しかも戦前もっとも人気の高い作品であるベートーヴェン第3番を選曲するなど、アマチュアの域を超えて聴衆を意識しそれに務めていた。
◆ 記事一覧(pdf)「新聞記事一覧」:
ジェームス・ダンに関する読売、朝日新聞の記事一覧。(演奏会の数を把握する目的のため、今回は雑誌、本の記事は除外した)
続いてジェームスは、同じ2曲を日比谷公園奏楽堂にて海軍軍楽隊と9月に立て続けに2回演奏している。日比谷公園奏楽堂は、19世紀ヨーロッパで広まった野外で音楽を演奏するスタイルを参考に日比谷公園内に整備された音楽堂である。東京市は1907年より陸海軍軍楽隊による無料の演奏会を月2回のペースで企画し、一般に公開され西洋音楽を直に聴くことができる場としてクラシックファンにはよく知られていた。軍楽隊の瀬戸口藤吉(海軍軍楽隊長)や大沼哲(陸軍軍楽隊長)ら花形軍楽隊長の存在、そして多彩なレパートリーと演奏技術の高さが日比谷公園奏楽の人気の要因で、1943年に中止されるまで37年間にわたり総計400回以上に及んだ。後に名楽長とうたわれた永井 建子 はフランスで一般に開かれた軍楽隊を実際に見学しそれを目標に掲げ、「日比谷の楽堂開始以来成るべく同一曲を再演しない」注釈12方針をとっていたという。聴衆の中には、音楽評論家の野村光一、のちに音楽之友社を設立する堀内敬三ら耳の肥えた人々もいて注釈13、彼らのような層からクラシックに馴染みのない人々まで多くの人が足を運んだ。広くジェームスの帰国を知らせ、今後の演奏活動の足がかりとするには最高の舞台だったのである注釈14。
〜ダン氏は上野出身のピアニスト中最も音に對する感覺が鋭い人であらう。各音に對する演奏は感激的であり、繊細美に富んでゐる。昨秋歸朝以來此の曲は三回演奏したが五日夕が最もよかつたように私は思ふ注釈15
ジェームスが帰国した頃のレコード界は、変化の真っ直中にあった。第一次大戦後の好況の波に押され「黄金期」を迎えていたレコード界だったが、1923年の関東大震災が引き金となり、政府が翌年蓄音機やレコードに贅沢品税を課し、元々高価だった輸入レコードに100%の関税がかけられた。輸入は低迷し、輸入額で見ると翌年1/5以下、翌年にはさらに半減している(日本帝国統計年鑑より)。その状況を打開したのが、1927年の国内プレス開始である。欧米の大手レーベルが日本に将来的な需要を見出し、録音技術を携えて日本に進出。最初に日本ポリドールがドイツからレコードの原盤を取り寄せレコード製作を開始すると、それに続いてコロンビア、ビクターも日本支社を設立し国産レコード製作に取りかかった。レコード価格は約半分になり売り上げが急伸し、レコード界は活況を呈し急速に進歩したのである注釈16。
ジェームスがレコード製作に携わったのは、この時期だった。主に立花房子、柳兼子ら声楽家のピアノ伴奏だが、何故彼女たちがレコード録音に参加したのかについて、柳が宮澤縦一に語っている。
印税をペツォールド先生に差し上げるということだったんで、先生のためならと、私も参加してうたっただけで、でも印税があまり安く、結局、途中で立ち消えになっちまってね、自然解消でしたよ。注釈17
つまり、これらの声楽レコードは恩師への謝恩の企画だったのである。ペツォルト門下で専属アーティストとして日本蓄音機商会(ニッポノホン、後のコロンビア)で録音した女性声楽家は、立花房子、武岡鶴代、曽我部静子、松平里子、柴田秀子、関鑑子の7名いた注釈18。そのほとんどの伴奏をジェームスが担当したことになる。
ジェームスの帰国した翌年、ラジオ放送がスタートした。さらに次の年、1926年には全国放送が実施されラジオは瞬く間に人気を集め日本人に最も身近なメディアになり、1927年1月1日の放送を皮切りに、ジェームスもラジオ放送で演奏する機会が増えていった。3年前の1924年に東京音楽学校でベートーヴェン交響曲第9番を全曲初演した頃である。未だ未知の音楽である西洋音楽に触れられると多くの人が耳を傾けた。次第に出演者は人気を競うようになり、ジェームスも全国的に名前を知られるようになっていった。1928年以降は、演奏会よりラジオ演奏の告知が占めるようになり、ジェームスの活躍の場が変化していったことが窺える。
ところで日本におけるNHKとNHK交響楽団のように、公共放送と音楽の親和性は高く、この時代のドイツでは戦時中にベルリン・フィルはドイツ帝国放送局で多くの作品を録音されており、ヨーロッパに広く目を向けても現在も公共放送局のオーケストラが存在し優れた録音を残している。戦後になると電子音楽やミュージックコンクレートの台頭と共に、西ドイツ放送ケルン局に電子音楽スタジオが設置されカールハインツ・シュトックハウゼンが電子音のみによる「習作I」(1953年)を発表し、日本でも諸井誠、黛敏郎がNHK電子音楽スタジオを、イタリアではルチアーノ・ベリオらがイタリア国立放送RAIにスタジオを開設し電子音楽作曲家たちの創作の場となった。
- 鈴木鎮一(1966)『愛に生きる』講談社現代新書
- 中丸美繪(1996)『嬉遊曲、鳴りやまず』—斎藤秀雄の生涯 新潮社p.66
- 中丸美繪(1996)『嬉遊曲、鳴りやまず』—斎藤秀雄の生涯 新潮社p.66
- 12歳からメンデルスゾーンから薫陶を受ける。ゲヴァントハウスで、メンデルスゾーンとクララ・シューマンと共演したことで存在を知られるようになる。ロベルト・シューマン、クララ・シューマン、ヨハネス・ブラームスらと交流を持った。諏訪根自子等、多くの日本人がヴァイオリンの指導を受けた。
- 近年孫でピアニストのアレクサンダー・レスラーが祖父のフルート作品をCD録音している。
- ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のホームページ・コラムより
- 帰国後のジェームスは、演奏と指導に専念し作曲作品は公には見当たらず、唯一《瞼の母》(作詞長谷川伸)がジェームス作品として、ビクターで録音されレコードで聴くことができる。
- この時期、京都帝国大学音楽部オーケストラ、東京帝国大学学友会音楽部オーケストラ、九州帝国大学オーケストラなどの学生オーケストラがあり、活動の質や内容に差異はあったが地域の洋楽普及にもっとも貢献した。西原稔(2000)「『楽聖』ベートーヴェンの誕生」近代国家がもとめた音楽(平凡社)p.154
- 西原稔(2000)「『楽聖』ベートーヴェンの誕生」近代国家がもとめた音楽(平凡社)p.165
- 東京音楽学校にユンケルの後任として1913年に来日した。クローンはオーケストラの実習指導に長けており、東京音楽学校のオーケストラの演奏技術の向上に貢献した。
- 西原稔(2000)「『楽聖』ベートーヴェンの誕生」近代国家がもとめた音楽(平凡社)p.165
- ある特別な事業のもとに頼まれて余儀なく繰り返すことはあった。永井建子(1910)「公園奏楽と曲目」『音楽界』1月号p.62
その一方で、人気のために入手が困難ではあったが整理券が無料配布されるため、当時主だった音楽ファンである一部の特権階級の人々や知識人などに限定されず、一般に開かれた演奏会であった。 - その一方で、人気のために入手が困難ではあったが整理券が無料配布されるため、当時主だった音楽ファンである一部の特権階級の人々や知識人などに限定されず、一般に開かれた演奏会であった。
奏楽堂特別展2002「大田黒元雄とその仲間たち 雑誌『音楽と文学』(1916〜1919)」日本近代音楽館、及び谷村政次郎(2010)『日比谷公園音楽堂のプログラム』p.2 - ジェームスはその後も日比谷公園奏楽堂で演奏の機会があり、関係者との付き合いができたようである。1939年に奏楽堂の催しを仕切ってきた、元東京市公園課の熊澤氏を慰労する会が催された際には、発起人として山田耕筰、堀内敬三、中山晋平等と名を連ねた。
- 「読売新聞」1925年9月12日朝刊
- この時代のレコード事情に関する参考文献:倉田喜弘(1992)『日本レコード文化史』東京書籍、佐野仁美(2010)『ドビュッシーに魅せられた日本人』昭和堂、川添圭子(2001)「音楽新潮」解題 十字屋楽器店と柿沼太郎『昭和初期の音楽評論雑誌』山田耕筰研究所
- 宮沢 縦一(1965)『明治は生きている』音楽之友社
- 松橋桂子(2009)『柳兼子』水曜社p.151