ピティナ調査・研究

ジェームス・ダン物語 第2回

ジェームス・ダン物語 第2回
東京音楽学校の恩師と歌

ピアノ科の一学年上には田中 規矩士 がおり、ジェームスは神戸絢、弘田龍太郎、ハンカ・ペツォルトから薫陶を受けた。

神戸絢
神戸絢
(『日曜画報』博文社 第一巻第二十二号より)

神戸絢は天皇家でピアノ指導をした人物として知られる。東京音楽学校在学中にお雇い外国人ラファエル・フォン・ケーベル注釈1、幸田延に師事し、卒業後に若干23歳で助教授に就任した。1907年に文部省留学生としてフランスに渡り、パリ高等音楽院の聴講生として2年間滞在、ベルリンを経て帰国した。神戸への評価については音楽評論家の野村光一の言葉を借りる注釈2。(下線は筆者による)

音楽学校へいちばん早くフランス流ピアノ奏法を直輸入した日本人教師だということになるようです。しかし、学校の潮流がドイツ風だったので、神戸先生は結局音楽学校系統中では、ある意味で、浮いた存在になってしまったとも思われますね。だから、彼女の演奏は滅多に聞けなかったが、時折学校の奏楽堂での演奏会などで、ショパンなどを弾いたのを覚えています。それを聴くと、スタイルはほかの先生と違うし、音色も違っていたというのが、私の記憶に残っているところです。いわば別格官弊社みたいなものだったのであり、したがって、神戸先生のフランス流儀は当時の音楽学校ではあまり影響力がなかった。

神戸は教育に徹しておりその腕は確かで学生からも評判の教師だったが、率先して演奏会に出演しなかったことから学外から存在感が薄く感じられていたようである注釈3

弘田龍太郎
弘田龍太郎
ジェームスが弘田の初期作品を演奏する内容の記事(「朝日新聞」1936年9月4日より)

弘田龍太郎は、1892年に高知県に生まれ多くの童謡や唱歌を遺した作曲家である。1952年に60歳で亡くなるまで千数百曲に及ぶ作品を書き、代表作を挙げると《靴が鳴る》《春よ来い》《すずめの学校》《叱られて》《雨》《お山のおさる》《鯉のぼり》《浜千鳥》など枚挙に暇がない。
弘田は東京音楽学校のピアノ科で本居長世に師事し、卒業後にワイマール時代のドイツ・ベルリンに1年留学した。帰国後に母校でピアノ指導にあたったが、作曲科が新設されると元々作曲家志望だった弘田はわずか2ヶ月で職を辞し作曲科に再入学した注釈4。ジェームスは弘田が音楽学校でピアノ指導した数少ない生徒の一人だったことになる。弘田とは6歳しか違わなかったことから活動時期が重なり、ジェームスの卒業後に弘田の作品を演奏するようなことも度々あった。1928年5月発売の弘田作曲《おしくらまんじゅう》の録音では、ジェームスによる木琴、後のジェームスの妻・村山道子(結婚後、ダン道子)によるピアノ伴奏、そして道子の弟・村山忠義の歌が収められている。弘田は、自身の合唱団を主宰して頻繁にコロンビアレコードで自作の録音を行っていたこと、ジェームスもまたコロンビアの仕事で歌曲の伴奏を引き受けていたことから自然に話しがまとまったと考えられる。さらに、ジェームスが教鞭を執っていた日本大学にて、後に弘田と同僚となるなど縁があった。

ところで、この頃の童謡と唱歌については補足が必要である。
大正時代、赤い鳥運動と呼ばれる童謡運動が興った。1918年6月に創刊された児童雑誌『赤い鳥』が名前の由来で、この雑誌を軸に「芸術として真価のある童話と童謡を創作」を掲げ、運動に多くの若い文壇人や音楽家が創作に関わった。明治に西洋文化が輸入されてから、文学、音楽それぞれが日本独自の表現を模索していた時代に、大正の自由で闊達な新しい時代の機運を背景に、創作の一つの形として実を結んだのがこの運動だった。雑誌の刊行はわずか20年弱だったにも関わらず、有島武郎、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子ら名だたる作家が参画し、芥川龍之介は「杜子春」「蜘蛛の糸」を『赤い鳥』で発表し、若手作家の発表の場となった。音楽では、成田為三や山田耕筰等、アカデミックな音楽教育を受けた作曲家が中心になり後世まで伝わる名曲を発表した。弘田は《こんこん小山の》(1921年8月号)、《うさうさ兎》(1923年1月号)などを共に北原白秋の作詞にのせて発表している。運動の中心的な存在だった北原白秋は後に山田耕筰と『詩と音楽』を創刊し、児童歌謡からさらなる芸術作品としての詩と音楽の結びつきを模索した。赤い鳥運動により若い作家、作曲家の意欲が結実し良質な音楽が書かれ、現代に至るまで多くの童謡が歌われ続けていることを鑑みると、この運動が日本の児童童謡の基盤を作ったといえるだろう。

ハンカ・ペツォルト
ハンカ・ペツォルト。おじとおば宛のクリスマスカード(ペツォルト夫妻を記念する会『比叡山に魅せられたドイツ人』より)

ハンカ・ペツォルトは、ノルウェー出身のピアニスト・声楽家で、ピアニストだった母親から手ほどきを受け早くからピアノの才能を開花させた。16 歳でパリ高等音楽院の教授エリー・デラボルトとマリー・ジャエル夫人にピアノを学んだが、特筆すべきはワイマールでフランツ・リストのレッスンを受けた経験があることだろう。パリ時代に声楽に興味を持ちマチルデ・マルケージのところに通った後に、向学心は衰えずバイロイトのコジマ・ヴァーグナーの元で声楽を学んだ注釈5。コペンハーゲンの王立歌劇場でヴァーグナー《タンホイザー》のエリザベート役でデビューを飾り大成功をおさめ、その後パリのオペラの舞台に12年間出演しそこでオペラ作品で知られるジュール・マスネーにかわいがられた注釈6。ペツォルトは当時ヨーロッパの声楽界で活躍してきた一流の音楽家だった。東京音楽学校就任時は47歳、背が高く恰幅のいい堂々たる体格で鷹揚な明るい人柄であったという注釈7。音楽学校ではピアノと声楽を指導し注釈8、特に声楽で優れた指導力を発揮し三浦環、立花房子、 柳兼子関鑑子 ら日本を代表する声楽家を育てた注釈9。彼女の実兄ゲハルト・シュルデルプは高名な指揮者・作曲家でグリーグの伝記を記しグリーグ本人とも親交があった。ペツォルト自身もグリーグ作品を得意とし1885年10月20日に《ピアノ協奏曲》を初演し日本におけるグリーグの受容に貢献した。

 ジェームスの音楽学校時代の恩師と、彼の幼少期のレコード体験を結びつけるものは歌である。幼少期エンリコ・カルーソーの声を聴いて育ったジェームスは、音楽学校で童謡や唱歌を作曲した弘田、声楽の名指導者だったペツォルトに師事し、歌を通じて点と点が結ばれた。恩師との出会いはジェームスの糧となり、ピアニストとして活躍し始めてからもペツォルト門下の声楽家の伴奏者として多数のレコード録音を残し、弘田の作品の録音にも参加した。さらに1926年に一緒になった妻道子が声楽家だったことから、妻と共にピアノと声楽の演奏会を定期的に行った。ジェームスは、生涯を通じて歌と関わりを持ち続けたのである。

ジェームスと道子の演奏会告知の記事(『読売新聞』1927年6月10日)
  • 1848年ロシア生まれ。19歳でモスクワ音楽院ピアノ科に入学しチャイコフスキー等に師事するが、ステージで演奏することが自分の内気な性格に合わないと感じ、ピアニストを断念。1873年にドイツに留学し、イエナ大学、ハイデルベルク大学で哲学と文学を専攻した。1893年に東京帝国大学からの招聘に応じ、お雇い外国人として来日すると西洋哲学、ギリシア語、ラテン語を講じ、21年にわたり教鞭を執った。
  • 野村光一『ピアノ回想記』(1975)音楽出版社 p179-180
  • 「幸田延の音楽学校退職後、その代わりになる存在として期待されたが、公開の場で演奏する機会も少なく教育に徹してその期待に十分応えることはなかった」という内容の記事も出ている。やすを生(1911)「現代女流藝術家評傳(其四)「疑問の人 神戸絢子女史」『日曜画報』第一巻第二十二号 博文館p.14より
  • 秋山真理子・田中誠(2018)「弘田龍太郎研究 −故郷 安芸市を訪ねて−」『就実論叢』就実大学・就実短期大学 第47号 p.144
  • ペツォルトのプロフィールは、以下から引用した。瀧井敬子(2018)『夏目漱石とクラシック音楽』毎日出版社p.199
  • 松橋桂子(2009)『楷書の絶唱 柳兼子伝』水曜社 p.25
  • 松橋桂子(2009)『楷書の絶唱 柳兼子伝』水曜社 p.25
  • 「上野音楽学校声楽部門の指導者としての地位と、名ばかりとはいえピアノの先生としての補助的な職も得た」と記している文献もある。声楽科の教師が主立った肩書きだったようである。アーロン・コーエン(岡見亮訳)(2008)『比叡山に魅せられたドイツ人』より「讃辞:ハンカ・シェルデループ・ペツォルト(1862-1937)、日本の『声楽の母』」ペツォルト夫妻を記念する会 p.153
  • ペツォルトの声楽レッスンの様子については以下に詳しい。関鑑子追想集編集委員会編(2018)『大きな紅ばら 関鑑子追想集』株式会社音楽センター
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