ピティナ調査・研究

多 美智子 第3回 日大芸術学部の潮流

多 美智子 第3回 日大芸術学部の潮流 Michiko Ohno
総合大学に設置された芸術学部

ジェームス・ダン&道子夫妻、ポール・ヴィノグラドフが、共に指導にあたっていたのが日大芸術学部だった脚注1。日本大学は、大日本帝国憲法が公布された1882年に「日本民族主義による日本法律学校」として開校、1920年に大学の認可を受け「日本大学」になった。日本を良くしようと法律、政治を学ぼうと志を持った学生が集まり、同年に大学認可を受けた慶應、早稲田、明治、中央、法政大学の中でもバンカラ寄りの校風だった。

日大が他の私大と一線を画し「美学科」(後の芸術学部)を設置したのは、1921年だった。「美学科」の名称に、当時の日大の狙いがよく反映されている。既に設置され、学問中心だった東京帝国大学(東京大学)の哲学科「美学専攻」と立場を異にし、日大は学問と実技を両立する「芸術科」としたかった。しかし、文部省が「“芸術”は実技であって、学的体系をなさない」と難色を示し、「美学科」に落ち着いたという。つまり、東京帝国大学のような座学のみでもなく、芸術大学や音楽大学のような実技のみでもなく、学問と実技の両立を試みる、当時まったく新しい学科だった。学科設置時の音楽教授は2名だけで脚注2、そのうちの一人が兼常清佐だった。兼常は日本の民謡を体系的にまとめた音楽評論家で、1927年「ベートーヴェンの死」を執筆し、日本初期のベートーヴェン研究で成果を上げた脚注3人物である。西洋文化への盲目的な礼賛や追従に冷静な姿勢を見せていた兼常が登用されたことは、日大の「日本民族主義による法律学校」という建学の精神からみても不思議ではないのかもしれない。

1929年、実技に松平里子、内田栄一、ジェームス・ダン、鈴木慎一が教員に加わった。しかし実技の内容が充実する一方で、総合大学で実技を行う難しさに直面した。学内から「教室でピアノを弾かれたら困る」などと苦情が集まり、柔剣道場にピアノを移したという脚注4脚注5。さらにこの時期、学生の赤化の動きが活発になり、その矛先が芸術学生に向けられていた背景もあった。

1934年本郷金助町(東京)の日本大学芸術科校舎
(『日本大学芸術学部五十周年記念 松原寛(伝)』(1972)より)

「作曲理論」コースの芽生え

1932年、小松耕輔、堀内敬三、伊庭孝らが講師陣に加わり、作曲・理論面の堅固な支えになった脚注6。アカデミックな「作曲科」に目を向けると、東京音楽学校作曲科の設置が前年1931年であり、在野での活動が興っていた一方で、まだまだ未開拓だった。その中、日大は他大学に一歩先んじて、強力な3名の指導者を抱えた。

さらに小松の就任は、音楽科史において重要な意味を持っていた。小松は、日本で作曲を本格的に勉強した作曲界の先駆けである。東京音楽学校では山田耕筰の2年先輩、信時潔の4年先輩にあたり、武満徹の師・清瀬保二を育てたと言えば、その先駆性は証明されるだろう。小松は36歳の時に渡仏、パリ高等音楽院の作曲聴講生となり、シャルル=マリー・ヴィドールに作曲を、ポール・フォーシェに和声を、さらにヴァンサン・ダンディに指揮を習った。3年後に帰国すると、国民音楽協会を設立し合唱運動を主導し、また作曲家の権利を守るため「作曲者組合」脚注7を組織し、日本に作曲活動を根付かせるために尽力した。日大教授就任時には、既に楽壇はもちろん学内でも影響力を持っていたと考えられ、1937年までに、松竹の映画の仕事で多忙を極めていた堀内脚注8に代わり音楽科主任に就任した。

池内友次郎

小松は主任になると、フランスから帰国したばかりの池内友次郎を日大に招聘脚注9。小松の同門であり、7年間パリ高等音楽院で学んだ池内の参加によって、日芸音楽科は高度な専門性を持つ学科への一歩を踏み出した脚注10

日大は、小松耕輔氏が、芸術科の中の音楽科の主任のような地位に居て、私を招んでくれたのであった。そこで、先ず貴島清彦君を識った。二十歳ぐらいであった。しばらくしてから外崎幹二君を識った。三十歳ぐらいであった脚注11

池内友次郎と妻芳枝(連載9自伝・池内友次郎『音楽現代』(1980)9月号、芸術現代社より )

池内は、戦後、東京藝術大学で教鞭を執り、三善晃、別宮貞雄、黛俊郎、松村禎三ら錚錚たる作曲家らを育て、日本のアカデミックな作曲の流れを牽引した人物である。その輝かしい経歴は、日大から始まっていた。そして1943年、大学は「音楽科が沈滞している」として、池内に白羽の矢を立て音楽主任を要請し、池内はすぐに承諾という脚注12

教師陣を全部若い音楽家に入れ替え、学生との交流を積極的に進めた。まだ学生であった外崎幹二君を特に抜擢して、事務局長のように行動してもらったので、音楽家全体に活気が溢れはじめ、一応の成果が期待されうるようになってきた脚注13

しかしその矢先、戦禍を被り、男子学生が学徒動員にかり出され、日大芸術科も閉鎖を余儀なくされた。戦後日大の授業が再開されて間もなく、池内のもとに東京音楽学校の小宮豊隆校長から教師就任の誘いが舞い込む脚注14。最初は「日大芸術科の音楽科主任の責任がある」ことを理由に返事を保留したが、結局小宮の熱意に押され、池内は日大を辞せずに両立する形で了承し、日大の勤務を1949年まで継続した。

日大で引き継がれた教え

池内の自叙伝に登場する貴島は、作曲を小松と池内に師事し、ピアノをジェームス・ダンに学んだ日大黎明期の遺伝子を継いだ作曲家である。戦後療養生活を送った後、日大で後進の育成にあたった。そして外崎は、池内門下の島岡譲とともに、こんにちの「芸大和声」の元となる『和音の原理と実習』(1958、音楽之友社)を執筆、貴島同様日大で教鞭を執った。日大には、小松と池内がもたらしたフランスのエクリチュール教育の芽が、貴島、外崎等により育てられ受け継がれていたのである。

池内との縁

多は池内と縁があり、「池内先生にはとてもご恩があります」と語る。小学5年の頃、日大で教鞭をとっていた多の母脚注15に、池内から「ピアノを勉強させるなら藝高を受けなさい。安川加壽子先生脚注16に習うといいだろう」と勧めがあり、藝高受験の道を歩み始める。

脚注1
道子は、芸術学部付属の児童学園の校長だった。
脚注2
音楽担当のもう一人は「実技指導講師」で、資料では「露西亜人:某氏(目下交渉中)」とされている。
脚注3
西洋文化が本質的に日本人には理解不能であるという前提に立った上で、その音楽に汲み尽くせぬ愛情を吐露するという逆説の上に成り立っている」主張で、それ故に、ベートーヴェン論を日本語では書いていけないと語ったという。(西原稔「『楽聖』ベートーヴェンの誕生 近代国家がもとめた音楽」(2000)平凡社p.66)
脚注4
日本大学芸術学部五十周年記念(1972)
脚注5
ダン道子が児童学園の校長に就任した頃の様子をこう語っている。(ダン道子「児童学園のこと」(『日本大学芸術学部五十周年記念 松原寛(伝)』(1972)より)
金助街のあの校舎は、オンボロボロで、ことに音楽室は他の教室にうるさいから、と地下室でございました。~地下のピアノは世界最高のブルツナーのコンサート用グランドで、主人はいつも「あんな所に置かれてピアノが可哀想だ。いまにカビが生えてしまうだろう」となげいておりました。このピアノは、残念、口惜しうございますが、先年のゲバゲバ学生にメチャメチャにされて了いました由、無茶な人間にかかってはたまりませんが、本当に悲しうございます。
脚注6
この頃、レッスン用のピアノが1台から3台に増え、音楽専攻を取り巻く環境が少しずつ上向いていった。
脚注7
現在の日本音楽著作権協会
脚注8
堀内は、撮影所の音楽部長が激務を極め、日大との掛け持ちが難しい状況だったことを語っている。堀内敬三「松原寛博士を思う」(『日本大学芸術学部五十周年記念 松原寛(伝)』(1972)より)
脚注9
池内が1927年渡仏した際にも、小松は恩師フォーシェへの紹介状をしたため橋渡しをした。池内は、その後、日本人で初めてパリ高等音楽院の作曲科に入学した。(連載6自伝・池内友次郎『音楽現代』(1989)芸術現代社より)
脚注10
1939年の江古田開校時は、小松と池内、そしてドイツでシュミットに学んだ引田龍太郎を教授に迎え、3名で「和声」「対位法」「楽式」「作曲実習」の授業を分担した。
脚注11
連載8自伝・池内友次郎『音楽現代』(1980)8月号、芸術現代社より
脚注12
結婚し2人の子供がいた池内にとって、安定した職があることは重要なことだった。
脚注13
連載10自伝・池内友次郎『音楽現代』(1980)芸術現代社、10月号より
脚注14
小宮の校長に就任後、井口基成など中堅の教授陣が大勢辞任し、再建に奮闘しており、既知の間柄だった池内の父・高浜虚子から紹介を受けたということだった。2人の関係について池内が残している。
「私の生まれたころ、それは夏目漱石の猫のころ(「我が輩は猫である」を指す)なのだが、漱石と父の交流は繋がったのであって、小宮先生も、漱石門下の一員として、ホトトギス発行所でもあった私の家によく来ていたらしく、お母さんはいつも元気か、などと、心が和むような親しみを示してくれもしたのであった」(連載11自伝・池内友次郎『音楽現代』(1980)11月号、芸術現代社より)
脚注15
ピアノをジェームス・ダン、ポール・ヴィノグラドフに師事した。
脚注16
15歳でパリ高等音楽院を最高位の成績で卒業し、17歳で日本に帰国すると、1941年に華々しくデビューしドイツ流一色だった楽壇にフランス音楽を持ち込んだ。