ピティナ調査・研究

多 美智子 第2回 ロシアピアニズムの継承

多 美智子 第2回 ロシアピアニズムの継承 Michiko Ohno
温かく大きな手

ヴィノ先生を想い浮かべる時、なによりも真先に頭に浮かぶことは、先生のやわらかな手。まだ私は「みそっかす」で母のレッスンについていったとき、お別れの際に、先生の手につつまれる時のあの、なんとも表現しがたい幸せな、そして、なにか不思議な気分…。~温かくやわらかな大きな手は、ヴィノ先生脚注1のすべてを表しているようにさえ思えます。(寄稿:多 美智子『ヴィノ先生の想い出』「回想のヴィノグラドフ」脚注2より)

多は小学校に入学してから、ポール・ヴィノグラドフにピアノを習い始めた。ヴィノグラドフは、1888年にロシア領ホルム(現ポーランド)に生まれ、ロシア革命翌年の1918年に来日し、ジャワ、オーストラリアなどの滞在を経て、再来日して永住したピアニストである。多は、当時のレッスンをこう語る。「毎回のレッスン毎に、大判のノートにスケール、アルペジオの指遣いを先生がご自身で書き込んでくださる。三度のスケールなども含まれ、その日にダメだったところや宿題を、右、左は日本語、後は原語で書いてくださいます。ほかにはチェルニーの「毎日の練習」を始めていた記憶がありますが30番と並行してだったかはあまり良く覚えておりません」。

ポール・ヴィノグラドフ

ポール・ヴィノグラドフ
(『回想のヴィノグラドフ』より)

ヴィノグラドフは、ロシア音楽が隆盛を誇った時代、ロシアピアニズムの本流で育った。2歳の頃から母から手ほどきを受け、幼少からピアノの才を示し、8歳にしてパリ・コンセルヴァトワールに入学し本格的な教育を受けるようになった。パリでは、ショパンに薫陶を受けたエミール・デコムに師事したが、スクリャービンとの出会いが好機になり、翌年にモスクワ音楽院付属高等音楽学校へ転入した。それからヴィノグラドフは、モスクワで7年にわたり優れた指導者に導かれ研鑽を積んだ。

ヴィノグラドフが高等音楽学校に入学した頃は、ニコライ・ルビンシテイン脚注3がモスクワ音楽院を創立して二十数年しか経過しておらず、その付属組織にあたる音楽学校は、まだできて間もない時期だった。音楽院の教授が音楽学校に指導に来ることも多く、生徒はかつて音楽院の教壇に立ったチャイコフスキーや彼を育てた教授を身近に感じながら、そしてラフマニノフやスクリャービンと同じ系譜に連なっていることを肌で感じながら練習に勤しんだ。ヴィノグラドフは、入学の翌年から音楽院に教授を務めていたスクリャービンから、「(初級にいるにも拘わらず)何時でも好きな時に自分のクラスに来るように言われました」と語っている脚注4。この頃のロシアは、革命前で政情も不安定ではなく、古き良きロシアの雰囲気が残り、音楽院や音楽学校も、「ロシアと西洋音楽」の出会いがさらに昇華する予感に包まれていた。

ロシアピアニズムとモスクワ音楽院

ロシアでは、「ミハエル・グリンカが近代ロシア音楽の嚆矢とすれば、ロシアピアニズムの祖はアントン・ルビンシテインである」と言われるという。彼らからの伝統を絶やすことなく数々のヴィルトゥオーゾを輩出しながら、ロシア音楽の発展を支えてきたのが、モスクワ音楽院を頂点とする音楽院と音楽学校である。ロシアの音楽教育システムは、若い才能を見いだし育てることと、伝統を継承することを重んじた明快なシステムである。ピアノ科のカフェドラ(Kaφenpa)は、伝統の継承を象徴する仕組みで、教授は主宰するクラスで弟子に流派を引き継ぐようになっている。

ヴィノグラドフは、ワシーリー・サフォーノフ脚注5の仲介でコンスタンチン・イグムノフに師事、自宅に下宿させてもらう好待遇で迎えられた。イグムノフは、当時モスクワ音楽院の4大ピアノ楽派脚注6の一つを担った大教授である。イグムノフの流派は、ショパンコンクール第一回優勝のレフ・オボーリンをはじめ秀英揃いで、オボーリンからはウラディーミル・アシュケナージ、ミハイル・ヴォスクレセンスキーらが育ち、後者のヴィスクレンスキーは現在、音楽院でカフェドラを主宰し、流派を引き継ぎながら伝統を後世に伝えている脚注7。ヴィノグラドフはイグムノフからのロシアピアニズムの流れを汲んだピアニストで、日本にその流れを持ち込んだ最初期の人物だと言えるだろう脚注8

ヴィノグラドフが説いた柔軟性

ヴィノグラドフは、モスクワで培った貴重な音楽体験、演奏技術や豊かな知識を日本で弟子に伝えた。氏がまとめた「ピアノ演奏への手引き」には、その中身を知るヒントが見つけられる。「基本的技巧」の章に、“柔軟性”という言葉が登場する。

  • 指と手のひらは多少緊張ぎみではあるが手首は絶対に柔軟性を失ってはならない。
  • (指の練習について、必要であり役立つものであるが)無理をして両手の柔軟性を失えば何にもならない、~。
  • 和音奏法にはしっかりとした指と柔軟性をもった手首とが必要である。

という具合である。指の練習によって得られるしっかりした指と、それと同等かそれ以上に自然で柔軟な手を求めていることがわかる。「スケール」と「アルペジオ」を例にとってみよう。指の練習が常時必要で、「スケール」「アルペジオ」を弾くと指が開くようになるが、やり過ぎると柔軟性を失い、指の筋肉を痛めるので無理をしてはいけないと説く。そして、「スケール」と「アルペジオ」を弾く時のなめらかさは、どのようなことをしても習得することが最も重要であるとしている。おそらく、この時代、日本でこれだけ柔軟性を説いたピアノ指導者は、稀だったはずである。

さらに「曲と解釈」では、演奏者の創造性について言及している。素晴らしいピアニストの演奏からは、毎回新鮮なものを創造している印象を受けるという。おそらくヴィノグラドフは演奏者が生み出し聴衆に与えるものの力を心の底から信じており、そのことは弟子たちに音楽の楽しさを感じさせ、奏でる喜びをもたらした。多は「音楽を愛する心、うたう心、これが先生が私に与えてくださった大きな、そして大事な贈物です」と話している。

門下生を包んだ温かく大きな手

しかしそれと同時に、門下生が編んだ「回想のヴィノグラドフ」を俯瞰して浮かび上がってくるのは、演奏技術などを超越した、ヴィノグラドフの豊かな人間性である。レッスン中のヴィノグラドフは確かに厳しかったが、レッスン後によく門下生たちをおもてなしていた。お気に入りのジャーマンベーカリーを一緒に訪れたり、ヴィノグラドフ自ら昼食を振る舞ってテーブルを囲んだり。門下生は、その時に見せるヴィノグラドフの様々な表情を見て、人間性に触れ、多くのことを学んだのである。ヴィノグラドフの死後40年弱を経て現在も門下生を中心としたヴィノグラドフの会が継続しているのは、彼の音楽と人間性が伝わり受け継がれてきた証拠であろう。

お気に入りのジャーマンベーカリーのケーキを片手に
(『回想のヴィノグラドフ』より)

脚注1
ヴィノグラドフは、面倒見がよく、生徒から“ヴィノ先生”と呼ばれて親しまれていた。
脚注2
「回想のヴィノグラドフ 西欧人の心に映った日本の幻想 ?交響詩“那須野”を中心に- 」(2004)没後三十周年記念記録集 ヴィノグラドフの会 p.174
脚注3
アントン・ルービンシュタインの弟。社交的な反面、思慮深い雰囲気と固い意志を持ち合わせ音楽院の運営と指導において優れた能力を発揮した。ロシアを代表する兄アントンには、「弟がもし本気で演奏活動をしたら、自分よりもはるかに立派なコンサート・ピアニストになっただろうに」と言われた。(佐藤泰一『ロシア・ピアニズムの系譜 -ルービンシュタインからキーシンまで- 』より)
脚注4
実際には、ヴィノグラドフが音楽院のスクリャービンのクラスを受けることは叶わなかった。
脚注5
仲介役のサフォーノフは、前述のスクリャービン、ヨゼフ・レヴィーン、ニコライ・メトネルらを育てた優れた教育者で、この当時音楽院の学院長を務めていた。
脚注6
イグムノフ、アレクサンドル・ゴルデンヴェイゼル、レオニード・ニコラーエフ、ゲインリヒ・ネイガウスの4教授。
脚注7
現在のモスクワ音楽院のホームページには、ミハエル・ヴォスクレセンスキーと、セルゲイ・ドレンスキーの2つの流派が紹介されている。
脚注8
マキシム・シャピロ(金子勝子第2回に登場)は、ニコライ・メトネルに師事していた。メトネルの師がテオドル・レシェティツキであり、さらに遡るとその師がカール・ツェルニーである。
補足:ポール・ヴィノグラドフの足跡については、以下の資料を参考にした。
  • 小山内道子「亡命ロシア人ピアニスト・ポール・ヴィノグラードフの人生の軌跡を追って ー1937年再来日前のオーストラリア、ニュージーランドにおける演奏活動とその周辺−」『異郷に生きるVI 来日ロシア人の足跡』(2016)成文社
  • 小山内道子「ピアニストP.M.ヴィノグラードフの年譜作成に向けて」(1)~(5)、「第27回研究会 発表したレジュメ」(『回想のヴィノグラドフ』収録)