ピティナ調査・研究

金子勝子 第4回 突破口を求めてがむしゃらに

金子勝子 第4回
突破口を求めてがむしゃらに
ピアノコンクールの萌芽期

 ピティナのコンクールが始まった1977年、ピアノのコンクールと言えば「日本音楽コンクール」が唯一に近い存在だった。戦前から現在に至る長い歴史の中で、有望な演奏家たちを多数世に送り出してきた、日本最高峰のコンクールである。しかしピアノが一般に普及するようになり脚注1、ピアノ教育に熱い視線が注がれるようになると、次第に状況が変化し始める。初級中級の学習者の発表、勉強の場が期待されるようなり、それに敏感に反応した楽器店が、地元に密着した子ども向けの小規模コンクールを企画し始めたのである。ピティナのコンクールは、そうしたコンクールが芽吹いていく時代の先駆でもあった。「小さいコンクールもまだ少なく、たとえあっても課題曲、自由曲の意図が明確ではなくて、みんな手探り状態でした。ピティナの4期の課題曲は、そんな中で素晴らしかった」と金子は振り返る。

弓削田とともに高みを目指して

ピティナのモデル教室に通っていた弓削田は、同じく教室に通う若林顕らと、コンクールの褒賞として演奏旅行に地方を訪れるなどして、日頃の練習の成果を披露していた

課題曲の手伝いをしながら、生徒にピティナのコンクールを受けさせるようにしていた。しかし、いいところまでいっても全国まで届かず、音大にも挑戦してもなかなか思うように入らない。「そんな時期に弓削田さんが来てくれました」と話す。そして金子は、弓削田とともに高みを目指して大きな一歩を踏み出す。
「御木本澄子先生のところに弓削田さんを連れて行きました」。御木本は、独立した指、薬指の強化、滑らない指といった、ピアノを弾く指のための基礎的なトレーニングを考案した人物で、フィンガートレーニングの第一人者である。弓削田が小学校の頃には、御木本に見てもらい始めたという。そして、弓削田が中学生の頃には、藝高受験に向けて御木本から高良芳枝を紹介してもらい準備を始める。当時東京藝術大学の付属高校教員だった高良は、この時点で「まだ指が弱いため藝高には届かないだろう」と話したという。そこから、御木本のところで指の基礎訓練をしながら、高良に受験に向けてレッスンを受けるという、金子と弓削田の努力の日々が続いた。「弓削田さんはとても頭のいい方だし、それはそれは努力したわよ。私も高良先生のレッスンには、毎回ついて行って見学させていただきました。今はそんなこと絶対許されないと思います。昔は、もっと許されない風潮があったかもしれません。高良先生はお優しい方で、それを許してくださりました」。

名指導者らのレッスンに、どういう印象を持ったのだろうか。「お二人とも、私に『こうしなさい』とは決しておっしゃらない。一方で、私に改善点を暗に示してくださり、どれほど多くのヒントを与えられたか計り知れません。先生方なくして、藝高受験の成功はあり得ませんでした」。

足りないものと向き合う

弓削田の藝高合格は、金子に少しの自信をもたらした。その一方で、必ずしも望ましくない評判が耳に入るようになった。「金子さんのところは、まだあの打鍵力では駄目だ」と。「まだまだ足りないことがわかった。それから生徒を公開レッスンに出して、師弟そろって恥をかいてましたね。だから、このような思いをしないで済むように、私は見学レッスンに『来なさい、来なさい』と言って、その先生も呼んで見学してもらいます。私の秘蔵のメトードを渡すこともありますよ」。

そして金子は、日本の国際コンクールの草分けである「日本国際ピアノコンクール」脚注2に日参し、打鍵力だけでも通用しないことを悟る。日本人と外国人の参加者との間に歴然とした差があった。それがレガートの鳴らし方だった。「外国人は、自然にフレーズからフレーズに流れる。音の繫がり、呼吸の仕方、間の取り方が上手。一方で日本人は、ためるってことがうまくいっていなかった」。「指がちゃんとしてないと、レガートはガチガチになる。レガートは、よっぽど訓練された指で、ちょっと鳴らして音が入るようにならないといけない。それに気がついてから、レガートばっかりやったのよ」。つまり、繊細なレガートの流れを表現するには、相応の打鍵力を身につけておく必要があり、それをコントロールするための訓練が求められるということである。

戦後しばらくの間、日本では、指を高くあげて強く鍵盤をたたく奏法が教えられてきていた。金子は、その弾き方も一つだと話す。「指を強くするには効果的だから、私も取り入れてます。指を上げすぎるといけないけれど、ちょんと挙げて、スコーンと落とす練習も必要。そして、レガートの弾き方を練習する。私はバランスが大事だと思います。弾き方、演奏の方向性など、ピアノは本当にやることがたくさんありますよ」。

家族とともに歩む日々

大学を卒業してからピアノ教育に熱中してきた金子だが、それを見守ってきた家族とはどのような関係だったのだろうか。

金子と夫が出会ったのが、大学生の頃だった。ある大学の合唱団の伴奏を依頼された時のこと。せっかちな金子は、予定より早く誰もいない練習会場に着いた。そこは幼稚園の教室で、大人用の椅子は一つだけ。その椅子には背広がかけられていたが、金子は気にせず寄りかかって座っていた。その背広をちょっと怒りながら引き抜いた持ち主が、未来の金子の夫だった。

金子が大学卒業してすぐに結婚したが、その時代どこの家庭もそうだったように、やはり金子の家庭も亭主関白だった。土日になると仲間を呼んで4人で麻雀。「毎週、徹夜麻雀ね。私は、仲間の分もおにぎり、おつまみ、餃子、焼売なんか作って出したわよ。お料理は割に好きだったから、随分やったのよ」。

ピティナの仕事とピアノの指導と、家庭と、それらを両立するのは難しくなかったのか。「どんどんピティナの仕事も増えていって、子どもは孤独だったかもしれません」と話す。息子が、思春期にさしかかった小学6年~中学1年の頃、「僕とピアノの生徒どっちが大切なんだ」と言われ、金子は咄嗟にわが子を抱きしめた。その後、親子は良好な関係を保つことができたという。次第に仕事の比重が大きくなる中でも、金子はそれを振りかざすことなく主婦業をこなしてきたのだろう。金子が一生懸命家族の声に応えていた様子が伺える。

脚注1
経済企画庁の調査『家計消費の動向』によると、日本におけるピアノ世帯普及率は、1959年に1.6%だったのが次第に増え、1974年には10.2%に達し、10年後の1984年には17.6%、1989年には21.9%と右肩上がりで増え続けた。1990年代に入ると頭打ちとなり、20%代の前半で停滞した。
脚注2
1980年から1995年にかけて6回開催された。

わたしたちのピアノ教育史 TOPへ