ピティナ調査・研究

弓削田優子 第4回「美しい花を咲かせられるように」

弓削田優子 第4回(最終回)
「美しい花を咲かせられるように。」
大学院受験を決意するまで

大学3年の3月、約7年師事した恩師・高良が退官を迎え、弓削田は新たに多美智子に師事することになり、変化の年を迎えた。
高良は退官に際し、生徒たちの成長を一番に考え「あなたにはこの先生が合う」と、一人ひとり次の教員に引き継いだという。高良からその愛情のこもった贈り物を受け取り、弓削田は多のもとでスタートを切ることになった。ただ、大学生活は残り1年を切り、目の前に卒業試験と院試も控えていた。「多先生にお会いした時に、まず『大学院はどうするの?』と聞かれました。自信はありませんでしたから、『大学院は無理ではないでしょうか』と伺ったところ、『受けてみないとわからないわよ。挑戦なさってみたら』と言っていただきました」。早速、院試の曲に取りかかったという。この時のレッスンについて、「高良先生の時とはまた違った緊張感のあるレッスンでしたが、とてもワクワクしたのを覚えています」と弓削田は話す。
まず、古典派の中から腕に覚えのあったモーツァルトを選び、多から「来週何番をもってきてね」と候補曲を挙げてもらい、準備した。「翌週、先生は全楽章を通して聴いてくださると、『悪くはないけれど、何番の方が合っているかもしれないわ。通して弾いてみて!』とおっしゃり、『すみません、何番しか練習してきませんでした』と焦る私に、『大丈夫、間違えてもいいから全楽章通してみて。でも入試に使えるか時間を計るから止まらないでね』とおっしゃったのです。無我夢中で弾きましたよ(笑)」。

大学最後の年に先生が変わることになった弓削田。不安の中からのスタートであったに違いないが、しかし、多との出会いは素晴らしい邂逅となり、弓削田にさらに高みを目指すきっかけをもたらした。「多先生は、抜群のセンスをお持ちでいらして、先生の音楽は、私にとって、まさに『これだ!』という感じでした。たった1年ではもったいない、多先生にもっとご指導いただくために、院に行こう!と受験を決意しました」。

そして、さらなる高みへ

多は、高良の生徒について「皆、基礎ができているから、そこに時間をかける必要がなかった」と話す。弓削田も、「高良先生に丁寧にみていただいたおかげで、基礎の先のことを教えていただけるところに辿り着けたのだと思います。多先生に、とても良いタイミングでお会いし、素晴らしいセンスに触れることができました。多先生の音楽は、それはそれは素敵で、しかも先生御自身もお美しくて、お洋服からご自宅の雰囲気、先生の所作。すべてが憧れでした」。

院試が近づいてきた頃、多から「高良先生に一度聴いていただいたら?」と勧められる。
高良は「もう多先生の生徒ですから」と気遣ったが、レッスンを引き受けてくれたという。しかしレッスンをお願いした一方で、弓削田は「大学院を受ける意志」を高良に伝えることに気が引けていた。それまで、高良の厳しいレッスンを受ける中で、先生からの愛情を感じつつも、自分の演奏に対する自信はなかったからである。高良からどのような反応があるのか、不安と緊張の中伝えると、「是非、なさってみたらよろしいわ」と、背中を押してくれたという。高良からこの言葉を受けとった弓削田は、どれほど嬉しかっただろうか。愛情深い厳しさに育まれ、弓削田は高良から成長の証に、この言葉を受けとった。

ピティナ特級グランプリ受賞

特級の全国大会出場者と審査員。後列右から二人目が弓削田。華やかなドレスが弓削田に似合い可憐な印象

金賞と同時にミキモト賞も授与された

コンペティション上位入賞者リサイタルのプログラムより

弓削田は、院試に無事合格。多に導かれ、新しいステップを踏んで行く。「ピティナの特級を受けさせていただいたのも、多先生の時でした」と弓削田。まずコンクールの選曲にあたって、「プログラミングにもセンスが必要」ということを学んだという。「『自分の得意な曲やただ大曲を並べればいいのではなく、小さくてピリッとした曲も入れるといいのでは?』とご助言いただきました」。さらに、ピアノの技術以外についても、貴重なアドバイスがあった。「『当日、何着るの?ちょっとドレス持ってらっしゃい』と、服装も見ていただきました。『これより、こっちの方が似合うわ。』とか、『ソロは昼間だから、イブニングではなく少し足が出るものの方が相応しいのよ』など、抜群のセンスと知識でたくさん教えてくださりました」。
万全の準備で挑んだ特級で、弓削田はグランプリを受賞。コツコツと努力を積み上げ、見事に才能を芽吹かせたのである。福田に才能を見いだされ、金子からピアノの楽しさを学び、高良のもとで音楽、ピアノの基礎を築き、多との出会いで表現する楽しさを学んだ弓削田。「どの先生からも、必要な時に大切なことを教えていただいたと思います。私は恩師に恵まれました」と話す。

修了年度を迎えると、修了試験と論文執筆が待っていた。これまで演奏と向き合ってきた弓削田にとっては、論文は新しい音楽へのアプローチだった。まず論文のテーマを決め、それに合わせた選曲で修了試験を受けることになる。弓削田はテーマをドビュッシーに選び、「多先生には、テーマの設定から論文執筆まで随分丁寧にみていただきました」と話す。
また、ドビュッシー研究ということで、多から恩師の安川加壽子の話をたくさん聞かせてもらったという。安川加壽子は、幼少からパリで音楽の英才教育を受けて育ち、パリ高等音楽院卒業後の1941年に日本に帰国すると、まだドイツ音楽が圧倒的に優勢だった日本にフランス音楽を紹介し、フランス音楽の作品、演奏における門戸を開いた人物である。多の自宅には恩師の安川加壽子の美しい写真が飾ってある。「私は、直接安川先生のご指導を受けたことはありませんが、こうして高良先生、多先生から私が教えていただいたことは、時代を越えて受け継がれてきたことなのだと感じ、その教えを大切に受けとめなければと思いました」。

弓削田は修了試験を通り、藝高から続いてきたアカデミックな音楽教育を修めた。

現在の教育者としてのことを尋ねると、「私が恩師から学んだことは、曲に対しても、音楽に対して常に誠実であるということです。それを軸にしていれば、ぶれることはありません」と、信念を語る。「今は、色々な情報が溢れていている時代です。本来自分が勉強して根拠をもって弾くべきところを、安易に人の真似をしてしまうことが多いように思います。いい演奏の一部分だけを真似すれば自分の演奏が良くなるわけではありません。『この曲は、どういう曲なのか』、楽譜をよく読んで勉強したら惑わされません」。
そして、「レッスンでは絶対に諦めないことが大事」と語る。「生徒に一生懸命伝えても、生徒の演奏が私の求めるものに近付かないこともあります。そんな時は、アプローチの仕方を変えて、あきらめずに伝え続けます。手を変え品を変え、尽くせる力は尽くし切る。本番当日でも子供は変わります。当日のレッスンで、『できた!』なんてことも珍しくありません。たとえコンクールで結果が出なくても、それまでの努力は、その子の中に蓄積され、いつか必ず花開きます。目の前の結果ばかり追わず、長い目で、将来美しい花を咲かせられるように育てることが大切です。私も恩師にそうして育てていただきました」。
このように大切に育てられている生徒たちは、師匠をどう見ているのだろうか。弟子の北川ひとみは、こう語る。「とても温かい人間性をお持ちの先生です。高校生の時には、親身になって相談にのってくださったこともあり、“優子先生のように温かい先生になりたい”と、指導者を目指すきっかけをいただきました」と、純粋に弓削田を慕い、尊敬していることが伝わってくる。
さらに、北川はこう続ける。「生徒に伝えるときの“言葉”が素晴らしいです。生徒の年齢に合わせて、分かりやすく伝えて下さるので、実際音にすると魔法がかかったような素敵な音が出るのです」。レッスン中の弓削田の言葉の巧みさについては、4歳から弓削田に師事する水谷碧の母親も、「子供が体験してきたことや、知っている話などを例えにして話してくださります。また、子供の目線に合わせた、わかりやすい言葉を優しく話される一方で、目指す音のクオリティを下げないで伝えてくださる。」と話す。そして、「生徒はもちろん、保護者も優子先生ファンです」と、熱心に語ってくれた。弓削田も「私は弟子にも恵まれ、人柄のいい方々に囲まれて幸せです」と話し、弓削田を中心にピアノを通じて温かい関係が広がっていることが伺える。
弓削田が培ってきた高い音楽性と演奏技術は、弓削田の温かくて、チャーミングな人間性により、生徒たちの心に響いている。そして、しっかりと生徒の演奏に息づき、将来きっと美しい花を咲かせていくだろう。