ピティナ調査・研究

弓削田優子 第2回「ピティナっ子”と呼ばれるゆえん」

弓削田優子 第ニ回 Yuko YUGETA
“ピティナっ子”と呼ばれるゆえん

 弓削田優子がピティナっ子と呼ばれるのは、小学生の時にコンクールに2度参加したこと、モデル教室に通っていたこと、そして大学時代に特級で金賞を受賞したことが大きな理由だろう。コンクールの出場回数は多くはないが、ピティナにとっては、モデル教室に迎えた生徒が成長して特級で金賞を獲得したという、弓削田の成長を見守ってきたような面がある。弓削田にとっても、振り返ってみるとピティナが新しい世界に踏み込むきっかけになっていたことがわかる。ピティナっ子と呼ばれるのは、年月の長さというより、要所要所での関わりの深さからだろう。

 弓削田のピティナとの出会いは、小学校1、2年生の頃に遡る。習っていたピアノの先生に「出てみないか」と誘われ、まだ始まって間もなかったピティナのコンクールに出場した。この時、弓削田の演奏を聴いた先代の福田靖子が、9.5をつけたという。「今よりアットホームな雰囲気だったこともあり、コンペ終了後に、福田先生とお話しする機会がありました。徐に母が、講評用紙を福田先生にお見せしたら、『私がそんな点数をつけることは、めったにない。あなたには、何かあるのよ』とおっしゃいました」。そうして弓削田はピティナのモデル教室に誘われ、松﨑伶子の門を叩いた
松﨑のところに通うようになって、初めて“本気のピアノの世界”を目の当たりにする。「松﨑先生のところの生徒は、ものすごくおできになるか、保護者の方が熱心かだったように思います」と思い返す。まさに弓削田もそうだったように選ばれた将来有望な生徒か、高いゴールを持ち、家でもばっちり練習をみてあげるような保護者の子が集まっていた。弓削田は、彼らから多くの刺激を受けた。松﨑のもとで1年半ほどレッスンを重ねた頃、A1級に参加し見事銀賞を受賞した。

金子勝子先生との藝高受験への挑戦

金子に習っていた頃に出場したピティナ「ヤングピアニストコンサート」。モーツァルトのd-mollファンタジー」を披露した

コンサートには母お手製のドレスを着て出ていた

 その後、当時埼玉に居を構えていた金子勝子に習うことになる。金子のおおらかな人柄に導かれ弓削田はのびのびと成長する。レッスンは、生徒の感性を大切にし、自由に弾かせるなかで曲を仕上げるようなかたちで、弓削田はピアノを弾く楽しさを知った。しかも、当時はまだ金子の“ピアノ教師スタート期”で、お茶をいただきながらおしゃべりする時間があるなど、こぢんまりとした雰囲気の中、温かい人間関係が築かれていた。
金子といえば、今でこそ優秀な生徒を多く送り出すベテランのピアノ教育者であるが、弓削田は金子のところから初めて藝高に合格した生徒になる。前年にも門下生が藝高に挑戦していたことから、「次は優ちゃんね」とそんな流れになったという。弓削田は、「金子先生にお世話になっていなければ、藝高受験も思わなかったかもしれません」と話す。「その頃は意識があまり高くなかったものですから」と、自身のピアノ人生のスロースタートを口にし、「金子先生のバイタリティがあって、前向きなところに引っ張っていただいたと思います。当時、コンクールのことも受験のことも、何もわからなかったものですから、先生がいろいろ決めてくださって、それにしたがって進んだという感じでした」。「先生に引っ張られ失敗を恐れずにやってきたことで、今があると思います」と言う。
一方金子が、弓削田に藝高受験を促したのには理由があった。金子は生徒の音楽学校受験について、「自分が肩書きがなくて苦労したから、ちゃんと肩書きが欲しかった。『わからないんです』と言って何でも聞きにいったし、調べたりしたわ」と話す。弓削田の挑戦だった藝高受験が、金子の挑戦でもあったのである。

 藝高を目指すに当たって、金子の紹介で、弓削田は高良芳枝に指導を仰ぐようになった。
高良との出会いについて、弓削田はこう振り返る。「小学生の頃は、自分の感性や音楽性を表現することについては、確かに他の人よりも力はあったのかもしれません。金子先生は、そういう得意なところを引き上げてくださったように思います。その先に進もうとすると、自分の好きなようにばかり弾いていられなくなります。作曲家の意図や曲の時代背景などの知識が演奏する上で必要になり、そういった大事な部分を高良先生に教えていただきました」。

「絶対、妥協しない」

 高良は「絶対に妥協しない先生」である。
受験生だからといって、ゴールのためにレッスンのレベルを合わせることはなく、“高良の合格ライン”に届くまで繰り返したという。高良についた頃、弓削田の指はまだ力が弱く、思い通りの音色を奏でることができないことがしばしばあった。レッスンの時に、予想外の音が出たことがあり、弾いた瞬間に「しまった」と思ったが、音が鳴った瞬間には高良の声が飛んでいたという。高良の1音へのこだわりは、“受験生だから”“試験前だから”といった状況には全く左右されなかった。 高良に細かく指摘されて心は折れなかったのだろうか?「確かにレッスンは厳しく、怒られてばかりだったので、自分の演奏に対する自信はありませんでした。ただ『先生は、すごい』ということですね。先生の豊富な知識と、先生に対する信頼から、『先生に教わった通りに弾いていれば、大丈夫だ』という気持ちはありました」。「愛情豊かに育てていただきました」と言い、高良への感謝の気持ちが滲み出ていた。

 そして、弓削田は狭き門を突破し、東京藝術大学付属高等学校に合格した。
弓削田のピアノ史は、ここから本格的に動き出す。日本最高峰の音楽教育機関で、高良の厳しくも愛情深い指導に導かれて、ピアニスト、そしてピアノ教育者として、弓削田の磐石な基盤が築かれていく。