ピティナ調査・研究

二宮裕子 第5回(最終回)「音色をrealizeする」

二宮裕子 第5回「音色をrealizeする」 Yuko NINOMIYA
桐朋「子供のための音楽教室」

 音楽の教育に情熱を傾ける母と叔母、そして譲り受けたスタンウェイ。二宮が育った環境は、ピアニストになるためのものだったと言って過言ではない。「いつでも母と叔母のレッスンを受けようと思えば、受けることができた。そう考えると、私は恵まれた環境だったと思う」と二宮。心強い環境に加えて、ピアニスト二宮を形作ったもう一つが、桐朋「子供のための音楽教室」である。
音楽教室は、まだ敗戦が色濃い1948年に井口基成、斎藤秀雄、伊藤武雄、吉田秀和らにより発足された。「子供のための音楽教室」から始まり、音楽の早期教育の成功を糧に、高校、大学と母体を大きくし、現在に至るまで日本の音楽教育をリードし続けている。
二宮が通った時代は、音楽教室の最初期に当たる。寺子屋風の雰囲気で、教師、生徒、父母が一体となって教室を作り上げていた。小さな子供達と一緒に通う父母は漏れなく熱心で、楽譜がなければ5線譜を書いて写すようなこともし、教師もまたそれ以上に熱意を持ってレッスンに臨んでいた。教科書は、すべて教師による手作りで楽譜やリズム譜が用意され、これらは後にソルフェージュ学習者のバイブルとなる『子供のための』シリーズの元となった。

 毎週土曜日2時頃から、市ヶ谷の丘の上にある家政学院で、ハーモニー、メロディ、ソルフェージュの3つクラスが行われた。グレード制がとられていて、学年関係なく同レベルの学友が一緒になった。二宮は中村紘子とは2つ年上だったが、一緒のクラスで「(音を取りやすい)ピアノの前の席を取り合った」という。当時、学科主任だった作曲家の別宮貞雄は、幼い頃の二宮と中村のことをよく覚えていた。別宮は、ハーモニーの最上級グレードを担当しており、「(最上級グレードの生徒は)単独の和音ではなく、複調和音でなければ歯ごたえもなさそうだった」脚注1と語っている。「(彼らを)なんとか退屈しない授業をするのにたいへん苦心した」そうで、弦の生徒の出席率が良かった一方で、ピアノ科で優秀だった、二宮や中村のような生徒は徐々に出席が減ったと回想している脚注2。別宮の試行錯誤した様子が窺える内容だが、総合的なソルフェージュと早期音楽教育が、予期した以上に大きな成果をもたらしたことも事実で、二宮や中村はその賜物であった。

レオニード・コハンスキーと、二宮、中村紘子、井口基成・秋子・愛子、安川加壽子、豊増昇ら。桐朋「子供のための音楽教室」50周年記念誌より

 また、創立者の一人である井口が「良い成果をあげ、優秀な生徒が輩出した遠因になった」と語るのが、音楽教室のもう一つの特徴である実技のオープンシステムである脚注3。学校の設備が少なかったこともあるが、生徒たちは皆それぞれ先生の自宅に赴き、レッスンを受けた。二宮は、小学5年生からレオニード・コハンスキーの元に通うようになったが、前出の中村も同門だった。「チェルニー50番の何番をやってる」と学友と言い合い、競争していたという。同様のことを、二宮とトリオを組んでいた岩崎洸が回想している脚注4

 (師匠の斎藤秀雄から)堤(剛)はこのエチュードを何ヶ月で終えたから、君も早く終えるようにとか、安田はこの曲は一回のレッスンで通ったから一回でやらなきゃだめだとか、一、二歳年上の生徒を引き合いに出して必ずどこかで競争させるような言葉がありました。なんでこんなにしなければいけないんだと思いながらも、競争心を煽って腕を上げさせるんです。

 これは、桐朋「子供のための音楽教室」独特の文化だった。そしてこの競争文化は、総じていい結果をもたらした。また、音楽教室の教師は腕試しという意味でコンクールに参加することを奨励していたため、戦後のコンクールで桐朋の生徒が上位を独占するという状況がしばらく続いた。

 この頃の音楽教室の先生たちは、音楽教育に奉仕するようなところがあった。二宮も、斎藤秀雄について「ただただこの子たちをうまくしてやろう、という志がすごかった」と語っている。教師は、まじめに取り組む生徒を大切にし、手助けする父母を評価しようとした。そして、桐朋を巣立った生徒たちは、戦後の日本の音楽界を鮮やかに彩っていった。この時代の生徒が少人数にも関わらず、異常にプロになった割合が高いのは、やはり、生徒が先生の大志を感じとれる距離で、父母とも膝を突き合わせた信頼関係があり、優れた学友と一緒に成長した、そういういい時代を経ているからではないだろうか。

きれいな音色に辿り着くまで

二宮の音色を、高弟の関本昌平はこう語る。「自分の音と全然違った(とてもきれいだった)。体の使い方も、脱力の仕方も違う」と。二宮のきれいな音色は、どこで培われたのだろう。

小学校の頃は、きれいな音色の「き」の字もなかったという。「小学校の試験は、『誰が早くて』『誰が強く弾けた』という時代だったのよ」と二宮。「きれいな音色や腕の重さについてまで、話は及ばなかった。誰もきれいな音色、腕の重さについては教えてくれない。コハンスキー先生も、そういうことをおっしゃらない。かといって、ジュリアード音楽院時代の恩師ウェブスターが手取り足取り脱力を教えてくれることはない。『あれ、先生はきれいに弾いてるな、どうしてだろう』くらい」だった。
勿論、叔母の高良芳枝の脱力の教えがあったことは忘れてはならない。二宮も、「私が叔母から習ったことは、何より脱力だった」と話す。二宮の高弟、関本昌平曰く、「(高良が脱力した様子で奏でる音は)信じられないほど綺麗で、もう仙人の域に達していると感じた(笑)。例えるなら柔道の達人のように、無駄がない動きの中で、バタバタとなぎ倒すような感じだった」という。
名教授の高良の教えで、理想的な演奏に導かれたことは間違いない。しかし、それで二宮の音色が確立したのかというと、必ずしもそうではない。

二宮は脱力についてこう語る。「脱力をするためには、自分で気づくかどうか。こういう音を出したい、と自分で思うことが大事」。それには「年齢は関係ない。小さい子だって、できる子はすぐにできる。大人でもそう」。意志のある指に、きれいな音色が宿るのである。
そして「にわとりが先か、卵が先か、という議論のように、“脱力”も“音楽”もどちらもないといけない」と、脱力は決して目的や、ゴールにはなり得ないことを示した。これは、関本も同様のことを話す。「まず、自分がどういう音を目指すか。そのイメージを持って、求めていった時に、テクニックが必要になる」「しかし、言うほど簡単なものではない。目指したい音色は無限にあり、それに合わせた脱力の仕方が無限にある。やっと、自分の目指す音に近づいたと思ったのは、改造に取り組んでから4、5年経った頃だったと思う」。

そして二宮は、土台となる自分の「聴く耳」、音楽を感じ取る感性が重要だと強調する。音楽的な耳は、育てていくものであり、他の人の演奏を聴いたり、教えられる中で意識するよう促されて身に付いていく。「いい先生に習った、自分が一生懸命頑張ったということ以上に、いい演奏に出会ってきたということ」が二宮の財産になったという。中学校1,2年の頃に、母が終戦後初めて来日したイタリアオペラの一人分のチケットを取ってくれた、それを聴いた時の感動、衝撃。そして、アメリカ時代にホロヴィッツら一流の演奏家、ニューヨークフィル、オペラ、そしてバレエなどの定期演奏会に足繁く通ったこと。これらが二宮の血となり肉となり、「真の音楽」が形作られたのである。

二宮の話からは、きれいな音色を奏でるには「自分を豊かに育てる」ということが大事で、それをずっとずっと意識して、経験や音色を蓄え続けることで、そこに辿り着ける、という揺るぎない信条を受け取ることができる。

取材の終盤に二宮は、山﨑亮汰に言及した。「亮汰君は、どうしてもまだ肩を使って弾くところがある」。「ピティナの50周年の時のラフマニノフのリハもそうで、これを直さないといけないと本人にも何度も言ってきた」という。しかし、なかなか修正することが叶わずにいた。リハの後に、関本と山﨑が一緒に昼ごはんを食べたおり、「16,7歳の頃、アレクサンダー・ガブリリュクが浜松で優勝した直後に、ツーピアノでラフマニノフを弾いたことがあって、その時彼の弾き方を真横で見ることができて、とても勉強になった」と関本が話した。おそらく、関本は意識し続けてきた脱力の答えを見出しつつあった、ちょうどそんな時期だったのかもしれない。その話が山﨑にどう通じたのかはわからない。
しかし、4月27日の紀尾井町サロンホールでの山﨑の演奏は、ハーモニーを聴けて、肩の力も抜こうとする意識がはっきり見えるもので、それをrealize(はっきり理解する、悟、実現する)しようと努力しているのを、二宮は見たという。

恵まれた環境で、音楽家としても輝かしい道を歩んできた二宮だが、その音楽には、自らが培い大切にしてきた真の音色があった。それらは、弟子に継承され彼らの中に宿っている。

脚注1
桐朋学園大学音楽学部付属 子供のための音楽教室『桐朋学園大学音楽学部付属 子供のための音楽教室 20周年記念誌』1969年10月25日
脚注2
桐朋学園大学音楽学部付属 子供のための音楽教室『桐朋学園大学音楽学部付属 子供のための音楽教室 20周年記念誌』1969年10月25日
脚注3
中丸美繪『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』(1996)新潮社p.230
脚注4
中丸美繪『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』(1996)新潮社p.294

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