ピティナ調査・研究

二宮裕子 第3回「母 喜久子のピアノ史」

二宮裕子 第3回
「母 喜久子のピアノ史」 Yuko NINOMIYA
パウル・ワインガルテンの教え

喜久子が卒業を迎えた1936年、ウィーン音楽院のパウル・ワインガルテンが東京音楽学校に着任した。ワインガルテンは、リスト直系のピアニストとして名高いエミール・フォン・ザウアーに師事し、ウィーン音楽院では重職にあった人物である脚注1。ワインガルテンの生徒には、シロタ門下の中から永井進等、優れた生徒が引き抜かれ脚注2、研究科の道を選んだ喜久子もその一人に選ばれた。

すると、シロタの自由なレッスンから一変した。喜久子は、レッスンの様子をこう語っている脚注3

~お教室での先生は少なくとも金曜日のレッスンでは非常に怖かつた。餘り笑顔もなく嚴格で寸分の隙もない。いい加減と云ふ事は絶對に通用しなかった。新しい曲も二度目からは暗誦でしかも非常に不器量でも目鼻をつけて行かなければならない。

当時ワインガルテンは、喜久子と同じ東中野に住んでいたが、先に到着しているのはワインガルテンで、喜久子が後からこそこそとレッスン室に入っていくのが常だったという。レッスンから、足が遠のいていたというのが実際のところのようである。
ワインガルテンは、生徒全員に高い技術と音楽性と求めた。喜久子も、ショパンのエチュードホ短調を弾いていた時には、なかなか進まず、ワインガルテンの自宅に呼ばれて長時間のレッスンが行われたと語っている。しかしそのような厳しいレッスンにも、心折れなかったのは、喜久子が彼の本意を理解することができたからである。

~(ワインガルテンの)お小言は決してお役目的なものでもなければ底意地の悪い馬鹿にしたものでもない眞に藝術に對する義憤であつた。此の次は勉強して來ようと判然と考へさせられる。およそ心臓の強い怠け者でも先生の熱心に動かされないものはなかつた。

厳しいレッスンを2年経て、1938年喜久子の研究科の修了と、ワインガルテンの離任を同時に迎えた。1938年2月にワインガルテン門下生による演奏会が開かれ、喜久子は演奏会のトリを務め、リスト《巡礼の年 第2年への追加 ヴェニスとナポリ》より「ゴンドラを漕ぐ女」「タランテラ」を演奏した。

上野音樂学校の意義深き演奏会
上野音樂学校に招聘されたウィーン名教授ワインガルテン氏が滿二年の任期が完了して今春歸國されるにつき、同氏 擔當 たんとう の同校研究科生徒八氏の成績發表演奏會が行はれた(1月29日、同校奏樂堂)。
欧州における洋琴演奏法の一頂點にあるウィーン、ザウアー系統の精緻を極めた 傳統的 でんとうてき 奏法を僅かに二年の短日月で完全に本邦に移植しようとするのは無理なことである。~中には見事にそれを 體得 たいとく してゐた人達もあつた。
女性の内藤喜久子嬢、志賀登喜子嬢等、その傾向の著しい人達だが、殊に男性の永井進氏の進境には目覺ましい驚異的なものがあつた。

ワインガルテンの離日の日の写真。門下生が見送りに集合した。ワインガルテンの右側の女性(前列)が、二宮の母、喜久子。
この時、2年しかいなかった日本を去ることが名残惜しい、とワインガルテンは感傷的になっていたという。

これは音楽評論家の野村光一が、新聞に掲載した論評である脚注4。野村は、黎明期の音楽評論を切り開いた人物で、1932年の日本音楽コンクール創設にも小倉未子らと関わり、長年コンクールの審査員長を務め、戦後も楽壇の有力者として音楽界に影響力を持った。野村は、この時期奏楽堂の演奏会によく足を運んでいたようで、喜久子の成長を目の当たりにし手放しに褒め称えている。この記事は、喜久子が修行のような日々を乗り越え、ワインガルテンの指導に報いた証明書と言えよう脚注5

東京音楽学校卒業後の活躍

喜久子は1938年に研究科を修了すると、そのまま東京音楽学校で教務嘱託としてピアノを指導し始めた。
それと同時に、新交響楽団(現在のNHK交響楽団)の専属指揮者就任のために来日していたヨーゼフ・ローゼンシュトックの門を叩いた。ローゼンシュトックからピアノのレッスンを受けながら、新響でも演奏をしていたようである。N響には、専属のピアニストを採用していた時期があり、喜久子が演奏していた資料は残っていないが、妹の芳枝が「姉がN響で時々ピアノを弾いておりました」と語っている脚注6
ローゼンシュトックと言えば、既にヨーロッパで名指揮者として名を馳せていた人物で、来日が決まった際、「あんな大家はとても日本へ来るまい」脚注7と言われていた。実際に来日すると、腰を落ち着けて新響を育てることに注力した。トスカニーニを尊敬し、厳格に音楽を分析して作り上げるタイプの指揮者で、作曲家の意図通りの演奏を目指して、徹底的に練習を行ったため、あまりの厳しさに音を上げて楽団を後にする楽員もいた。その様子を知っていた喜久子は、ローゼンシュトックについて「(ピアノのレッスンは)指揮(の時)ほどこわくなかった脚注8」と語っている。

脱力の様子。

さらに喜久子は、レオニード・クロイツァーにも教えを受けているが、クロイツァーはこれまで喜久子が師事してきた師とは、少し毛色が違う。二宮への取材中、おもむろにピアノへ向かう場面があった。「二人の脱力の仕方がまったく違ったみたいで」(脱力写真)。一方は、腕の重みを利用して脱力するような深い音の出し方で、もう一方は、手首の力を抜きながら、鍵盤をアタックしたらすぐに柔らかく上に離す音の出し方で、「どちらの脱力がいい訳でもないのよ。使い分けることが大事」。日本に来てからのクロイツァーは、最晩年の時期にあたり、遅いテンポで情感豊かに弾いていたようで、恐らく、前者の深い音の方がクロイツァーかと思われる脚注9

ピアニストの園田高弘は、「こうした(シロタやローゼンシュトックら)世界の第一級の音楽家の薫陶を受けられたことは非常な幸運だった。そこで受けた教育の正しさは、のちに、ヨーロッパで確認することができた脚注10」と語っている。喜久子もまたその点、非常な幸運であったことに違いない。

 現在でも国会図書館で、喜久子の演奏を聴くことができる脚注11
品のある柔らかい鷲崎良三の歌声と、凛とした喜久子の伴奏が絶妙に会話し合う、美しい演奏である。録音状態は良いとは言いがたいが、「どのような状況で録音されたのだろうか」と反って趣き深く、演奏された戦前に思いを馳せるのである。

脚注1
山本尚志『日本を愛したユダヤ人ピアニスト』2004年 毎日新聞社p.138
脚注2
ピアノ科のレベルアップを目指した東京音楽学校が、日本政府を巻き込んで来日を依頼し、他の外国人教師に比べ群を抜いた高待遇で迎えた。この頃、日本が有名な外国人教授を招聘するに当たり、向こうから「選りすぐりの優秀な生徒のみを指導したい」と希望されることが多かった。
ちなみに豊増昇は、シロタに比べてワインガルテンに魅力を感じることができなかったのか、はたまた、突然の学校命令に反感を持ったのか、師事教授をワインガルテンに変更しろという命令に背き、教務嘱託の職を解かれ、そのまま留学の道を選んだ。
脚注3
「私達のワイン先生 ワインガルテン教授を偲ぶ」『聲』
1938年ワインガルテンが日本を離れる際に掲載された記事で、門下生6名が文章を寄せたが、中でも喜久子は最も長い文章を寄稿した。
脚注4
野村光一『東京日日新聞』昭和13年2月3日
脚注5
記事の通り、喜久子とともにシロタ門下からワインガルテンに師事した永井進も、技術面で花開いた。
東京藝術大学名誉教授だった田村宏は、ワインガルテン師事直後の永井進に手ほどきを受け、脱力をしつこく教え込まれたという。田村がウィーンに留学した際、ワインガルテンの弟子に師事し、「脱力に関しては言うことなし」と言われことで、ワインガルテンの教えがそのまま自分に継承されていることを感じたという。
脚注6
「高良芳枝夫人に聞く」NHK交響楽団機関誌『フィルハーモニー』1955年5月号p.15
脚注7
斎藤秀雄が師のフォイアマンが来日した際、そう発言している。新響の関係者の中でも、来日するまで同姓同名では、と訝しむ者もいたという。
脚注8
「高良芳枝夫人に聞く」NHK交響楽団機関誌『フィルハーモニー』1955年5月号p.15
脚注9
シロタの高弟、園田高弘は「シロタとクロイツァーの芸風はまったく違い、僕はシロタ門下だったので、「<白>と<黒>は正反対。<黒>は嫌いだ」と反発したものである」と語っている。(園田高弘『ピアニスト その人生』2005年春秋社p.20)
脚注10
園田高弘『ピアニスト その人生』2005年春秋社p.22
脚注11
シューマン《独唱:夢の花》江南 文三[作詞] 鷲崎 良三[歌] 内藤 喜久子[ピアノ]