ピティナ調査・研究

二宮裕子 第4回「最強の恩師 高良芳枝」

二宮裕子 第4回「最強の恩師 高良芳枝」 Yuko NINOMIYA
最強の恩師 高良芳枝

「私が師事したどの先生より、高良の叔母は素晴らしかった」と二宮は言う。“高良の叔母”、つまり母、喜久子の妹芳枝である。この高良芳枝こそ、二宮の最強のサポーターにして、東京藝術大学の名誉教授として、多くの俊英を育てた人物である。芳枝は、永井進、ローゼンシュトック、斎藤秀雄、安川加壽子といった音楽界の重鎮から教えを受けた。しかし、芳枝の教える姿勢は、その誰とも似ていない唯一無二のものだった。
バッハのフランス組曲6番を見ていただいた時。最初の2音だけで、1時間かかりました」と、二宮の高弟、関本昌平はレッスンを受けた時のことを述懐する。用意した曲がなかなか進まず混乱すると、「音を出す前に『違う』と言われる。手の動作が違う」と。こうした揺るぎない姿勢は、どの生徒にも、例え協奏曲においてでも、そしてコンクールの前日にさえ貫かれた。
芳枝の素晴らしさは、この妥協しないところにある。それを“執念”みたいなものと二宮は表現する。「この子をどうにかしたいと思った子をしつこく教えること。母も叔母もそうだったように。“執念”みたいなものね」。それこそ、自らが受け継いだ「ピアノ教育の遺伝子」であると話す。

さてバトンは、喜久子から妹の芳枝へ。姉妹の絆をもとに、どのように受け継がれたのか紐解きたい。

バトンは妹の芳枝へ

芳枝にとって、11歳離れた姉の喜久子は憧れの存在であり、ピアノの道の先導役だった。中学一年生で上野児童音楽学園脚注1に入るまでは、姉が先生役となりピアノの手ほどきをした。

姉が先生で、気が向いた時に教えてくれるという程度でした。〜自分(姉)の勉強も結構、忙しゅうございましたので、気が向けば教えてくれるし、気が向かなければ何日も放っておかれるという具合でした。脚注2

この頃、確かに喜久子は東京音楽学校で音楽家への道を駆け上がっていた時期だった。しかし芳枝の言葉通り、レッスンがそのように呑気なものだったかというと、全く逆であった。

(母はほとんどなにもいいませんでした。)文句をいいにくるのは姉のほうで、母は逆に、そんなにいいなさんな、というふうにとめていました(笑)脚注3

 芳枝も、レッスンは「まじめにだけはやりました。あまり融通のきかないほうでしたので…。(笑)脚注4」と答え、しっかり喜久子の教えを聞いたと語っている。その後、上野児童音楽学園に入ったきっかけを尋ねられ、「姉妹でいたしますと最後には“けんか”になりますものですから脚注5」と冗談めいて語っているが、これは真実である一方で、ことの成り行きとしてはこの通りであった。

喜久子は研究科にいた頃、同門だった永井進らとともに上野児童音楽学園の手伝いをしていた。上野児童音楽学園は、1933年に東京音楽学校の敷地内に早期教育を目的に設立された学校で、音楽学校の教師や研究生等が、小学生から高校生までの生徒に唱歌、楽器、楽典などを指導にあたっていた。喜久子が「とても勉強になるからどう?」と誘ったことから、芳枝が11歳の時に受験を決意。晴れて入学を果たすと、永井に指導を仰いだのである。これが、芳枝の本格的な音楽の道への第一歩となった。芳枝が児童学園で最初に弾いた曲が、モーツァルトのソナタ第10番K.330だったというから、姉がそれまで相当の基礎を教えていたことがわかる。

 姉の熱心な指導は、上野音楽児童学園に入った後も続いた。「一応、全部にわたって注意をしてくれました。レッスンに行く前に、下見が家にいるようなもので(笑)、その点、私は、あまり回り道をしないですみました脚注6」と語っている。

 児童学園の入学がそうであったように、芳枝が音楽の道を選択する時には、その先にいつも姉がいた。中学3年で児童学園をやめて、ローゼンシュトックに習うことになった時も、東京音楽学校の受験をすると決めたときも、卒業後にN響入団を決めた時もそうだった。

(東京音楽学校受験を自分で決めたのか、尋ねられ)
なんとなくそういうことになりまして。姉がそういう道をすすんでおりましたものですから、自分もそういうふうになるものと思っていたんですね。

つまり、姉が切り開いた道を、姉の後を追って芳枝が進んだということである。

N響時代の写真。1948年から準楽員、翌1949年より正楽員となり、1954年にN響を退団した。
1955年以降は、ソリストとして共演するなどN響とはゆかりがある。『藝術新潮』1955年6月号
芳枝独自の教え

 東京音楽学校に入学した後は、喜久子の結婚、出産、さらに大連行きがあったため、姉の手から離れたようである。芳枝は、東京音楽学校時代は宇佐美ために、研究科を卒業後は、斎藤秀雄に理論を、安川加壽子にピアノを師事し、その後、ベルリンにわたり、ゲルハルト・プッフェルトに師事し、研鑽を積んだ。様々なタイプの先生に師事していたことがわかるが、インタビューで「(フランス仕込みの)安川に習った後に、ベルリンの先生に習ったのでは、だいぶ模様が違うのでは?」と聞かれ時には「でも一番の基本は変わらないと思います脚注7」とさらりと答えている。芳枝の考える“基本”とは何か。

 芳枝は、理想的な演奏法について「ベルリンの先生が『いつも結局はそれぞれの体、手に一番かなった無理のない自身の弾き方を作り上げるべきだ』と言っていた脚注8」と話している。さらに、「2年許り行って勉強して来たから急にどういう風にかわると言うものでもなく、寧ろこれから私がそれをどう生かし自分のものにしてゆくかということが、大事なのではないかしらと思うんでございます」と付け加えている。つまり、様々な恩師から習ったことは、すべて自分のものにした時に初めて昇華すると考えているのである。

 芳枝には、そのようにして体得した“唯一無二の音楽”があったように思えるのである。前出の関本は「高良先生には、“これっきゃない”というブレないものがいつもある」と証言する。だから、レッスンでは妥協しなかった。「褒められたことはないです。『まし(・・)になった』と言われるんです(笑)」(前出の関本氏)。気づくまで、しつこく、しつこく教えて、生徒を引っ張り上げるのである。芸大教授時代の芳枝は「芸大で一番遅くまでレッスンしている」と言われたというが、それも納得である。

 レッスンは、ただ厳しいのではない。その根底には、父珍麿、そして姉から脈々と受け継がれてきた教育者としての深い愛情、そして真面目さがあるのではないだろうか。その土台があったからこそ、芳枝が多くの生徒に愛され、そして芳枝の元から多くの優れたピアニスト、ピアノ教育者が巣立ったのだろう。芳枝が名教授たる所以である。

脚注1
卒業生には、園田高弘、中田喜直らがいる。1941年頃から、学校の敷地内に防空壕が掘られ、児童や講師が地方に疎開をするようになり、1944年にやむなく閉鎖された。(橋本久美子「上野の杜の波瀾万丈 第八回上野児童音楽学園」『第19号藝大通信』2009年9月より)
脚注2
「せんせいこんにちは」『月刊レッスンの友』昭和43年12月28日p.25
脚注3
「せんせいこんにちは」『月刊レッスンの友』昭和43年12月28日p.25
脚注4
「せんせいこんにちは」『月刊レッスンの友』昭和43年12月28日p.25
脚注5
「せんせいこんにちは」『月刊レッスンの友』昭和43年12月28日p.25
脚注6
「せんせいこんにちは」『月刊レッスンの友』昭和43年12月28日p.27
脚注7
「~今月のソリスト~ 高良芳枝夫人に聞く」『フィルハーモニー』1958年5月p.18
脚注8
「~今月のソリスト~ 高良芳枝夫人に聞く」『フィルハーモニー』1958年5月p.18