ピティナ調査・研究

二宮裕子 第1回「教育者の遺伝子」

二宮裕子 第1回「教育者の遺伝子」 Yuko NINOMIYA
二宮裕子
名伯楽 二宮裕子

二宮裕子は、日本で指折りの名伯楽である。これまで世界レベルのピアニストを世に送り出してきた。「第1回福田靖子賞」「特級グランプリ」初の同時受賞を果たした関本昌平、幼少から天才少女と謳われた小林愛実、そして2016年クーパー国際コンクール日本人初優勝を飾った山﨑亮汰ら、これからの日本のピアノ界を背負って立つ存在である。
二宮もまた、日本を飛び出しアメリカで活躍したピアニストだった。17歳の時に日本音楽コンクール(毎日新聞の記事)で優勝を果たした後、ジュリアード音楽院に留学。在学中にはロックフェラー財団特別賞を受賞、卒業後も多数のリサイタルでアメリカ各地を飛び回り、華々しい演奏家の道を歩んだ。

「今ではこれで良かったと思っている」
二宮 (旧姓山口)の日本音楽コンクールピアノ部門優勝の記事。1960年10月24日『毎日新聞』より

しかし、演奏活動が軌道にのっていた40歳の頃に転機が訪れる。
左手にジストニアを煩ったのである。最近はピアニストが抱える病気として知られるが、原因もわからず「当時は深く悩んだ」という。
その苦悩は想像に難くない。二宮が教育を受けた時期は、戦後ピアノ教育が急成長していた時代にあたる。成長を牽引した桐朋「子供のための音楽教室」で、二宮はプロになるためのレッスンを受けた。トリオで薫陶を受けた斎藤秀雄は小さな生徒にも「プロになるか、そのつもりなら教える」と、演奏家になる覚悟を求めたという。切磋琢磨した学友はプロになり、その名を世界で知られる。ソルフェージュのレッスンで席を並べた中村紘子、トリオを組んだ岩崎洸、渡仏中に二宮のコンクール優勝に祝福の葉書を寄越した小沢征爾。つまり二宮は、音楽教育のフロンティアで、一流の演奏家になるための道を歩んできたのだ。
それでも、「今ではこれで良かったと思っている」と二宮は話す。右手は十分弾くことができ、生徒に音色の違いを聴かせるのには、問題がなかったのだ。演奏家としての経験値と、それまで培ってきた良質な音楽を糧に、二宮は教育者として後進を育てる決意を固めた。

教育者の遺伝子は、祖父にあり
内藤珍麿氏

二宮の「教育者」の遺伝子は、祖父の内藤珍麿まで遡る。
旧制水戸高校脚注1の数学教師を務め、卒業生に当時を尋ねると、必ず名前が挙がるほどの名物教師であった。「珍麿」は正しくは「うずまろ」であるが、生徒は親しみを込めて「ちんまろ」と呼んだという脚注2。「祖父が亡くなって1周忌だったと思うのですが、生徒さんが『内藤先生を偲ぶ会』を開いてくださった」と二宮が記憶しているように、生徒から愛される存在だった。
“高校”とはいえ、旧制水戸高校は1918年に施行された「高等学校令」により設立された官立高等学校で、今でいう大学教養課程にあたり、肩書きは内藤珍麿教授である。「東京大学脚注3から何度もお誘いがあったそうだけれど」それを断り、同校の文科の数学教師を長年勤めあげた。
当時の旧制水戸高校の4割が東京出身、3割が地元出身であり、珍麿も東京に居を構えていたため、土曜の授業を15分ほど端折って、東京出身の生徒と上野行きの電車に飛び乗っていた。しかし、水戸に住むようになると当時珍しいオートバイで通勤するようになり、生徒に請われると、気軽に後部座席を提供することもあったという脚注4
昭和10年代には、アメリカ製の車・パッカードで通っていた。パッカードといえば、戦前日本政府の公用車でも使用された、世界の名門高級車に挙げられるアメリカの車メーカーである。

珍麿氏が所有していたパッカードと幼い頃の叔母、高良芳枝先生
スタンウェイのピアノ

珍麿の一流指向は、ピアノにまで及んだ。
珍麿は、娘の喜久子と芳枝のために買い与えたのは、当時珍しいスタンウェイのピアノである。ヤマハのグランドピアノ第一号が完成したのが1902年。それから20数年経てもなお、ピアノが高価で手に入れることが難しい時代である。珍麿自身、ギターやマンドリン、フルートを嗜む音楽好きだったことも奏功したのだろう。このスタンウェイは、今も二宮の自宅に鎮座している。世代を超えて活躍したスタンウェイは「もう難しい」(寿命である)そうだが、生徒用として立派に現役である。

このピアノには、まだ物語がある。
東京でこの時期のピアノが残っているのは、奇跡に近い。多くが空襲によって失われたためである。1945年3月以降の空襲によって、終戦までに実に東京の約半分が焼失したと言われる脚注5。喜久子が嫁いだ山口家が所有していた麹町と幡ヶ谷の2軒もまた、戦中に移った大連から戻った時には空襲で焼失していた。
内藤家があった東中野も、空襲の戦火にさらされたが、奇跡的に内藤家を含む十数軒だけが免れた。運良くスタンウェイは、「妹の芳枝が弾くために」と実家の内藤家にあったために難を逃れたのである。山口家は、帰国して2年ほど内藤家に居候した後、新たに四谷に新居を構えスタンウェイとともに新生活のスタートを切った。
スタンウェイは、その後も長きにわたりピアニストたちの成長を見守り歴史を刻み続けた。

脚注1
1920年に茨城県に設立されたが、新制茨城大学文理学部の発足に伴い1950年に廃校。卒業生には後藤田正晴(政治家)、江戸英雄(三井不動産会長であり、ピアニスト江戸京子の父)、川﨑千春(オリエンタルランド初代社長)等、政財界の有力者が名を連ねる。
脚注2
「青春風土記」(旧制高校物語)『週刊朝日』朝日新聞社1978年
脚注3
当時は、旧制第一高等学校。
脚注4
「青春風土記」(旧制高校物語)『週刊朝日』朝日新聞社1978年
脚注5
1945年3月9日、4月13日、5月25日と続いたB29による大空襲をはじめ、東京は約120回の空襲を受けた。