ピティナ調査・研究

二宮裕子 第2回「音色の源 母、山口喜久子」

二宮裕子 第2回
「音色の源 母、山口喜久子」 Yuko NINOMIYA
二宮の音色の源 母、山口喜久子
母から譲り受けた楽譜。戦前は、楽譜の表紙に台を付けて、補強することが一般的だった。楽譜が当たっただけで譜面台が欠けてしまったのは、そのためである。

 「母のレッスンは、とにかく厳しかった」という。
「裕子!なんでわからないの!」と、母、喜久子の声が部屋に響き、楽譜が譜面台にバチンと当たった。その瞬間、譜面台にあしらわれた透かし彫りの唐草模様がざっくり欠けた。「しまった」という顔の母を見て、この時ばかりは「しめた」と思ったという。しばらく経ってから修復を施したが、いまだ左右非対称の模様が、母と娘の二人三脚を今に伝える。

母が、二宮の最初のピアノの先生だった。小学5年生でレオニード・コハンスキーに師事するようになってからは、母は練習の先生になり、「家で(母から)みっちり見られてレッスンに行くので、コハンスキー先生にはいい生徒だったと思うわ」。母の存在が、二宮のピアノ史において強固な土台になっていることが窺える。

 母、喜久子は、父の珍麿から与えられたスタンウェイで腕を磨き、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)本科への入学を果たし、さらに研究科まで進んだ。修了後は、東京音楽学校でピアノを教えながら、新交響楽団(現在のNHK交響楽団)で演奏するなど、一流の音楽家として活躍した。師事した先生は、小倉久子、レオ・シロタ、パウル・ワインガルテン、レオニード・クロイツァー、ヨーゼフ・ローゼンシュトックと、黎明期の重要人物が並ぶ。
ここから、二宮の音色の源である、母の喜久子の軌跡を日本のピアノ史を交えて辿っていきたい。

小倉末子との縁

喜久子は、東洋英和女学院時代に小倉末子に師事していた。

神戸女学院第27回卒業式(1910年3月30日)
前列左端が小倉末子。全員が和装だった中、一人白い洋装で目を引く。華やかな顔立ち、時代に先駆けた洋装など、小倉は年頃の門下生の憧れの存在でもあったという。(神戸女学院大学図書館所蔵)

小倉は、海外で演奏会を開き外国で認められた最初の日本人として知られるピアニストである脚注1。喜久子が師事した時期(1930-1932年頃)は、小倉が教育者、演奏家として、最も脂が乗った頃だった。ベルリン王立音楽院留学から帰国後、若干26歳で東京音楽学校の教授に就任してから十数年が経ち、学校での足場を築いていた頃で、自身の演奏活動も、帝国劇場でのソロリサイタルの成功脚注2を始め、順風満帆だった。喜久子は、小倉のいい時期にピアノを習い、東京音楽学校の入学の道筋をつけることができたのである。

ここに、小倉と二宮を結ぶ一つの縁がある。

1931年10月12日、「音楽コンクール」設立委員会の様子。
最前列中央に主催者である時事新報社社長、その右に幸田延子と小倉末子と並んでおり、小倉は幸田に次ぐ高い席次である。幸田が、「東京音楽学校の女帝」として君臨していた頃で、当時のピアノ教育界の縮図を伝える貴重な写真と言える。小倉は、数年にわたり審査員を務め、コンクールと深い結びつきを持った。
前列右端には、レオ・シロタの姿もある。(資料提供:毎日新聞社)

喜久子の音楽学校入学の年、1932年に由緒ある音楽コンクールが始まった。当時「音楽コンクール」と呼ばれた、現在の「日本音楽コンクール」である。通称「毎コン」と呼ばれ、もともと時事新報社主催でスタートしたが、後に同社が毎日新聞に合併されたことで、1937年毎日新聞社主催となった。1949年よりNHKが主催に加わり、現在まで最も権威あるコンクールとして続いている。小倉は、このコンクールの創設委員の一人であった。
二宮は、1961年にこの日本音楽コンクールで栄冠を手にし、ピアニストの道を歩むようになった。つまりこのコンクールは、創設から約30年の時を経て、不思議な縁で二宮と母の恩師を繋いだのである。

名教授レオ・シロタ

喜久子は、東京音楽学校入学後レオ・シロタ脚注3に師事することになった。レオ・シロタは、フェルッチョ・ブゾーニの弟子で、1931年から44年までの13年にわたり、東京音楽学校で教鞭を執り優れた生徒を育てた人物である。喜久子が入学した時、シロタ門下の3学年上には永井進がおり、豊増昇、水谷達夫等「三羽烏」脚注4と同時期にシロタに学んでいたことになる。豊増昇は、シロタの指導について次のように語っている脚注5

シロタのピアノ演奏方法論は、むろん、フェルッチョ・ブゾーニの正統の楽派に属しています。しかし、先生はいわゆる理想家や学者ではなかったから、これを抽象的に論述などはされませんでした。直接ピアノについて、実地に学生たちにそれを示されたのです。

“実地”について、シロタの高弟である園田高弘が語っている。脚注6

(シロタ先生は)リストであろうとグラズノフであろうとベートヴェンであろうと、そばですべて弾いて見せてくれた。~英語などほとんどわからなかったが、何か弾くと「ノー」、「プリーズ・リッスン(聴きなさい)」と言って、先生が隣で弾く。~そのような一種の口頭伝承で、生きた演奏法を伝授されたのだ。

シロタはどの生徒に対しても、このような指導スタイルだったようである。シロタが、「ルビンシュタインと同世代の大ピアニストの一人に数えられる」脚注7ほどの名手だったこともあり、それが生徒を納得させる最適な方法だったのだろう。
さらに園田は、「シロタ先生は弟子には何も強要しなかった」脚注8と述べている。それは、シロタが生徒を尊重していたからに他ならない。シロタはこのように自らの音楽を生徒に示し、生徒の自主性や音楽性を重視した自由なレッスンを行った。

脚注1
1914年ニューヨークのカーネギーホールで、1915年シカゴでデビューを飾った。演奏会の様子は日本でも外報で伝わり、新聞などで広く紹介された。
脚注2
帝国劇場で独奏会を開いた日本人ピアニストは小倉末子が初めてとされる。帝国劇場は1911年4月に開場した1700席の大劇場で、普段は歌舞伎等の公演を行い、月末の空いた日を洋楽の演奏会に貸し出したが、これだけの聴衆を集めることができるのは高名な外来音楽家のみだった。(津上智実、大角欣矢、橋本久美子『ピアニスト小倉末子と東京音楽学校』2011年東京藝術大学出版会p.55)
脚注3
シロタは、ウクライナに生まれたユダヤ人で、ロシア革命に端を発するユダヤ人迫害から逃れ、ウィーン音楽院でブゾーニに師事した際、既にオーストリア国籍を取得しており、来日した際も、国籍はオーストリアだった。
脚注4
永井進、豊増昇、水谷達夫のシロタ門下の3名のこと。戦後に母校でピアノを教え、戦後のピアノ技術の発展と向上をアカデミックな世界で支えた。
脚注5
『朝日新聞』1965年3月10日
脚注6
園田高弘『ピアニスト その人生』2005年春秋社p.14
脚注7
ローゼンシュトックの発言。
脚注8
園田高弘『ピアニスト その人生』2005年春秋社p.17