ピティナ調査・研究

IV.シンガポール

アジアの音楽教育事情とピアノ Ⅳ シンガポール
安藤 博(正会員)(2019年2月記)

アジア各国音楽教育事情についての調査シリーズ、今回はシンガポールについてレポートする。(2018年11月訪問)

まず地理上の位置関係から確認しておこう。
シンガポール(正式国名シンガポール共和国)は、インドシナ半島西側、象の鼻のように南北に延びているマレーシア半島の最南端に位置する。小さめの地図だとわからないが、拡大された地図で見ると、半島南端の狭いジョホール海峡を隔てた60以上の島からなり、総面積は719,2km平方なので東京23区(618,2km平方)とほぼ同じくらいの面積をもつ都市国家である。マレーシアとは、この海峡により隣接している。ちなみに人口は561万人(2015年)なので、東京23区の人口921万人よりは少ない。

歴史を紐解くと、1819年イギリス東インド会社のトーマス・ラッフルズが当時この地を支配していたジョホール王国の許可を得て、交易所を設置した。当時は500人くらいしか居住していなかったという。その後第二次大戦中に一時日本が占領した時期があったが、1963年マレーシア連邦成立(イギリス植民地からの独立)に際してシンガポールも統合された。その2年後の1965年にマレーシアから分離独立した。歴史的経緯からイギリスとマレーシアとの関係が深いと考えられる。

ある小学校の廊下に掲げられていたスローガン。”We must preserve racial and religious harmony”(民族と宗教間の融和を維持しよう)

民族構成については、比率は異なるもののマレーシアと似ていて、中国系(約76%)、マレー系(15%)、インド系(7.5%)、その他(1.5%)となっている。ただし、マレー系優遇政策(ブミムトラ政策)を採っているマレーシアと異なり、シンガポールは民族融和策が隅々にまで張り巡らされている。

バイリンガル国家
ある小学校の校門。学校名が上からマレー語、中国語、タミール語、英語で併記されている。

シンガポールでは、初等教育から二言語主義を早くから取り入れている。中国、インド(タミール語)、マレーなど各民族の母語に加えて英語が小学校から必修であるため、国民全員が英語プラス母語のバイリンガルというわけだ。注1

注1
英語は共通言語。英語を含む4言語は同等の公用語として扱われている。
シンガポールの教育制度

教育制度は、幼稚園に続いて小学校(Primary)6年、日本の中学校にあたるSecondaryが4年または5年。ただし、小学校卒業時にPSLE(Primary School Leaving Examination)という教育省による全国共通テストがあり、その結果によって将来大学進学への道が拓かれているコース(Express)に進むか、技術系専門学校に進むコース(Normal)かが決定される。つまり、試験の結果によっては大学進学の道が小学校卒業時点で、ほぼ閉ざされてしまうわけだ。注2
ごく大まかに説明すると、次のような進路になるが、詳細は、注2をご覧いただきたい。

小学校⇒Secondary School⇒ジュニア・カレッジ(大学進学準備)⇒大学
小学校⇒Secondary School⇒技術系専門学校

注2
シンガポールではPrimary Schoolの後、PSLEの成績に応じて様々なコースが用意されている。興味のある方は、下記(英語)を参照されたい。
The Singapore Education Journey

さて、以上のような教育事情の中、シンガポールにはどのような音楽系大学があるのだろうか?今回は西洋音楽のみをカリキュラムとしているヨン・シウ・トウ音楽院を中心に対照的な性格をもつ3つの大学についてレポートする。

ヨン・シウ・トウ音楽院
Yong Siew Toh Conservatory of Music (YSTCM)(国立シンガポール大学附属)

緑多い丘陵地にある広大な国立シンガポール大学(NUS)の敷地内にある同音楽院、今回お話しを伺ったのは、ピアノのKoo Siaw Sing先生。初対面にもかかわらず、先生の研究室できわめてフレンドリーに応対していただいた。

YSTCMは当時の首相代理トニー・タン氏の提唱により、国立シンガポール大学と米国のジョンズ・ホプキンス大学ピーボディー音楽院との協定により、2003年に創立された。創立時の学院長にはピーボディー音楽院前学院長が招聘されている。当初予定されていた校名はシンガポール国立音楽院であったが、創立に際して、ヨン・ルー・リンYong Loo Lin信託財団より?千5百万シンガポールドル(現行レートで約20億5千万円)の寄附があり、校名にピアノ教師であった同信託財団運営親族の故ヨン・シウ・トウYong Siew Toh女史の名前を冠することになったという。なお、同財団からは2008年にも同額の寄附を受けている。現学院長は元ロンドンのギルドホール音楽演劇学校の副学長であった、バーナード・ランスキーBernard Lanskey教授(2008~)。教授は私が2013年以来毎年出席しているSEADOM(Southeast Asia Directors of Music Conference)の会長も務めておられ、旧知の仲である。
YSTCMはシンガポールで唯一の音楽単科大学である。また、西洋音楽中心のカリキュラムであることも東南アジアの音楽系大学では珍しい。
専攻はピアノ、器楽、声楽、作曲、指揮のほか、昨年から「音楽、コラボレーションと制作」や「音楽と社会」という新しい専攻も導入されている。これらは、最近よく指摘されている音楽によるアントレプレナーシップ注3に関連しているのだろう。
学生数は約260名(1学年約60)くらいだそうだが、特筆すべきは前述のYLL信託財団と政府補助などにより、学費だけでなく、寮費、生活費もカヴァーする全額給付奨学金が全学生に支給されているとのこと。さらに留学生を積極的に受け入れており、約半数がアジア各国のみならず、米国、ニュージーランド、オーストラリアなどからの留学生だという。もちろん、教育言語は英語だが、キャンパスはきわめてインターナショナルな雰囲気をもっている。
NUSとの関係は、いわゆる総合大学附属の1機関というよりも自治的(autonomous)な性格が強いらしい。ただ、いわゆるクロス・キャンパスとして、一般教科をNUSの教員がつとめていたり、またNUSの学生がYSTCMのカリキュラムから選択できるプログラム(Access for NUS Students)も提供されている。さらに、設立時の経緯から、米国のピーボディー音楽院とジョイント・ディグリー制を敷いている点も大きな強みだろう。

注3
アントレプレーナーシップEntrepreneurship=企業家精神。事業を新しく独創的な発想で起業し挑戦的に推し進める精神のこと。
Dr. Koo Siaw Sing先生。マレーシアのペナン出身。米国クリーヴランド音楽院、北イリノイ大学(修士)、オレゴン大学(博士)で学ばれている。
YSTCMの校舎入り口付近。
シンガポール音楽教育者協会

ところで、今回お話しを伺ったKoo先生は、シンガポール音楽教育者協会(Singapore Music Teachers’ Association、設立1966年)の会長も務めておられる。同協会が2年に一度主催しているシンガポール演奏家フェスティヴァル(Singapore Performers’ Festival & Chamber Music Competition)についてもお話を伺った。
シンガポールにはPTNA に類似のピアノ指導者のみの協会はなく、広範な音楽指導者のための協会として同協会が活動している。その創立は1966年 (独立の1年後!)にさかのぼるというから、50年以上の歴史を築いている。
同フェスティヴァルは2006年の第1回目から隔年開催され、昨年が第7回目、6月18日から24日の一週間にわたって、ピアノ、弦楽器、声楽、室内楽、作曲の演奏を中心に、室内楽コンペティション、ピアノ、弦楽器、さらに教育法に関するワークショップやパネル・ディスカッションなどが、YSTCMを会場に行われた。演奏部門の参加者数はピアノ(ドゥオ含む)だけで411名(組)、その他弦楽器、室内楽、声楽、作曲など総計644組が参加している。また、参加資格はきわめてオープンで年齢、国籍、レベルを問わず参加可能となっている。(室内楽コンペの参加者は18歳以下)なお、演奏部門にも審査員が配置されておりプラチナ、金、銀などの賞に加えて、最優秀者には、キッズ・フィルハーモニー管弦楽団とのコンチェルトの演奏機会も与えられることになっている。

同協会の活動はこのフェスティヴァルだけでなく、ピアノ教育法シンポジウムなども随時開催しており、シンガポール国内だけでなく、近隣諸国の西洋音楽教育の発展に大きく寄与していると思われた。

ラサール芸術大学LASALLE College of the Arts (LASALLE)

同大学は1984年創立。以下の8つのスクール(学部)から成っている。

  • 現代音楽 School of Contemporary Music
  • 美術 McNally School of Fine Arts
  • ダンス&シアター School of Dance & Theater
  • クリエイティヴ産業 School of Creative Industries
  • ファッション School of Fashion
  • 空間&製品デザイン School of Spatial & Product Design
  • デザイン・コミュニケーション School of Design Communication
  • フィルム&アニメーション Puttnam School of Film & Animation

この大学の特長はすべてのスクールにおいて、現代芸術に特化したカリキュラムが提供されていることだろう。しかも、一つ一つの分野が異種としてではなく、相互にクロスオーバー的に関連した芸術分野として捉えられている。つまりきわめて現代的で社会学的な教育ポリシーが隅々にまで息づいていると言えそうだ。

現代音楽スクールは、ディプロマ・コースに加え、学士のコースが演奏(西洋クラシック、ジャズ、ポップ)、作・編曲、エレクトロニック・ミュージックという学科構成。ちなみにお話を伺ったDeMeglio先生によると、西洋クラシック専攻生はピアノ、声楽、ヴァイオリンなどで数は決して多くないようだ。
前述のように、ラサールは芸術各分野の垣根を取り払い各々のコラボレーションを重視し、その成果を社会に還元するという取り組みが見事に機能しているようだ。それは現代音楽スクールにとっても、たとえばミュージカルを制作する場合、ダンス&シアター、美術、フィルム&アニメーション、ファッション、デザイン・コミュニケーション他、ほぼすべてのスクールの共同作業が可能となり、その成果を社会に発信できることになる。我が国にはない性格の大学である。

McNally通りから見たラサール芸術大学の校舎、現代的な硬質な質感の校舎である。
お話を伺ったフランク・デメリョFrank DeMeglio先生。米国ミシガン大学で修士の学位を取られている。
中庭で学生たちが旧正月に向けてエヴェントの練習を行っていた。
ゲスト講師によるピアノマスタークラス。学生が弾いていたのは、シューベルトの「さすらい人幻想曲」だった。
南洋芸術アカデミー
Nanyang Academy of Fine Arts (NAFA)
NAFA Campus 3の入り口
入り口横に掲げられていた創立80周年記念公演J. シュトラウス「こうもり」の公演ポスター。”Multidisciplinary Production” 「学問領域を越えた」、つまりこの場合は「全学が協力しあって制作した」公演ということだろう。

ラサール芸術大学の通りから、ブロックひとつ隔てたところに位置しているのが、南洋芸術アカデミー Nanyang Academy of Fine Arts (NAFA)である。
創立は1938年というからイギリス植民地時代まで遡ることができる。
NAFAは、「シンガポールの教育制度」のところで触れた、小学校卒業時のPSLTによってNormal(技術系コース)に進むよう振り分けられた生徒たちがSecondary School 卒業後に入学することができる学校である。そのため、最初の資格はディプロマであるが、ディプロマ取得後に学士のコースにも進むことができるようカリキュラムが組まれている。また、ディプロマ取得後に用意されているコースは実に多様で、海外提携校(ロンドンの王立アカデミー他)や国内の最重要大学である、南洋工科大学やシンガポール国立大学、また、教員を目指す生徒には、4年間のディプロマ・コースの最終年に国立教育学院National Institute of Educationで学ぶことにより、小学校の教員免許も取得することができるという。注4
NAFAが提供しているプログラムは次の8つである。

  • デザイン&メディア Design & Media
  • 美術 Fine Arts
  • 3Dデザイン 3D Design
  • ファッション Fashion Studies
  • アート・マネージメント Art Management
  • ダンス Dance
  • 劇場 Theater
  • 音楽 Music
お話を伺ったEleanor Tan音楽学部副学部長

音楽のコース構成は、ピアノ(オルガンも)、声楽、管打弦のオーケストラ楽器全般そして中国音楽伝統楽器。NAFAは南洋芸術学院という中国名も校名を持っているが、伝統音楽としては中国音楽に力を注いでおり、北京の中央音楽院とも提携関係にあるとのことだった。
前に紹介したラサールとの相異は、前者は音楽を現代芸術の一分野として位置付けたカリキュラム、NAFAでは、オーソドックスな教育により、基礎からしっかり教え、生徒たちに卒業後の様々なキャリアパスを用意しているということになるだろう。

注4
シンガポールの高等教育機関では、教職のカリキュラムが提供されていない。そのため、教員職を希望する学生は、各々の専攻で学位を取得した後に、国立教育学院NIEに進学することになる。

以上、音楽カリキュラムを提供するシンガポールの3つの高等教育機関についてレポートしてきたが、最後に、国立教育学院NIEにも訪れたので少し触れておこう。

国立教育学院
National Institute of Education (NIE)

シンガポールでは、各大学には教職課程が設置されておらず、教員志望の学生は、全員がNIEで学ばなければならないことになっている。同学院は国立シンガポール大学と並び称される国立の南洋工科大学Nanyang Technological Universityの附属機関で、1950年に創立,音楽プログラムは1992年に開設されている。お話を伺ったEugene Dairianathan先生によると、修業年数は、小学校教員から校長など管理職資格レベルに応じてディプロマ1~2年、学士4年、PGDEと呼ばれる修士・博士レベルが18ヶ月となっているそう。また、音楽の教職体験は2回課されていて、1回目が5週間、2回目が10週間、そして資格取得後の就職率はほぼ100%だそうだ。

南洋工科大学の広大な敷地内にあるNIEの校舎の一部。NIEだけでもいくつか建物があるので、少し迷ってしまった。
NIEのヴィジュアル&パーフォーミング・アーツ学科(VPA)教授のEugene Dairianathan(Dr.)教授
終わりにかえて

シンガポールは、はっきりとした学歴社会で、社会人の平均給与も学歴に応じてかなり差があり、しかも同じ大卒でも大学のランクや医学系、法学系などの違いによっても差が生じている。シンガポールの子供達は、小学校からこうした厳しい競争社会に否応もなく投げ出されているということになる。
また、シンガポールの教育水準は極めて高いことでも知られている。例えば世界大学ランキングで知られるQS World University Rankingの2019年度版では、トップ10のほとんどが米英の大学が占める中、国立シンガポール大学(NUS)が11位、南洋工科大学(NTU)が12位で、アジアではダントツの高位である。(ちなみに日本の大学では東京大学の23位が最高位)また、OECD(経済協力開発機構)加盟国を中心に3年に一度実施されている15歳児の学力調査(PISA)で、シンガポールは常に1、2位を争っている(日本は5位)。その他、国際的な英語能力試験であるTOEFLなどでも、世界的に極めて高いランキングである。

一方、本文では触れなかったが、シンガポールにはNational Serviceと呼ばれる徴兵制度がある。男子全員にほぼ例外なく注5課せられる義務で、おおよそ18歳から2年間兵役(一部に警察などもある)に就かなければならない。したがって、シンガポールでは、女子は19歳から大学に入学できるが、男子は20歳過ぎてからの入学となり、卒業時には25歳くらいになっている。さらに、2年間の兵役を終えた後も、40歳(将校は50歳)になるまで予備役として年に一度招集に応じなければならない。もし、正当な理由なしに拒否すると、懲役または罰金の処罰を受けることになるという。この制度の中では、学業を事実上2年間休止しなければならないことになるので、こと音楽を学ぶ学生、とくに演奏系の学生にとってはかなり大きなマイナスになることは否めないはずだ。
今回の訪問時には、ナショナル・サービス(NS)について私自身の知識があまり整理されていなかったために、この件については詳細を尋ねることはしなかったが、お話を伺った先生方からもNSが教育に与える影響について、とくに深刻に捉えておられるようにも思えなかった。この国では男子の「当然の義務」として受け入れられているためだろうか?

注5
例えば、スポーツのナショナルチームに招集されている場合など、免除されることがあるという。

(写真撮影はすべて筆者)

安藤 博 Ando Hirohi
東京芸術大学楽理科卒業
前 国立音楽大学演奏部事務室・学長事務室室長
現在、タイ・バンコク市近郊のマヒドン音楽大学(College of Music. Mahidol University)客員教授として、一年のうち約半年間をタイ在住。
ピティナ正会員、日本音楽学会正会員
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