II.マレーシア その2
アジア各国音楽教育事情についての調査シリーズ、今回は前回レポートしたマレーシア編の「その2」である。「その1」をまだお読みになっていない方は、是非とも併せてお読みいただければと思う。
マレーシアの教育制度については、前回のレポートで触れたが、日本とは大きく異なる制度の中で、高等教育期間での音楽教育はどのようになされているのだろうか?
今回はクアラルンプールとその近郊にある3つの大学を訪れた。ひとつは、私立の総合大学、一つは国立の芸術大学、もう一つは国立の総合大学・・・各々が対照的な特徴をもっている大学である。
現在、マレーシア国内には20の国公立総合大学、21の私立総合大学があり(その他ユニヴァーシティ・カレッジと呼ばれる大学が28校)、UCSIはマレーシアの全私立総合大学の中でトップにランクされている。1986年 カナダ系のコンピュータ学機関として創立され、2003年University College Sedaya Internationalとなり、2008年学士・修士・博士の学位を授与することができる最高高等教育機関Universityとしての資格を得ている。現在は7つの学部(Faculty),2つのインスティチュート、3つのセンターがあり、クアラルンプール市内のメイン・キャンパスだけでも学生数は19,000人を超え、そのうち約38%が留学生だという。音楽はInstituteの一つではあるが、学士および修士の学位を授与できる学部と同等の位置付けにある。10月3日に学部長のピン・テン・ファ教授(Dr. P'ng Tean Hwa)を訪ねお話を伺った。
同音楽学部(Institute of Music)が開設している学科・課程構成は下記のとおりである。
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1.基礎課程 (Foundation in Music) 1年
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2-1.クラシック音楽学科(Bachelor of Classical Music)3年
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2-2.現代音楽学科(Bachelor of Contemporary Music)3年
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3.修士課程(Master of Music, Performance students)16ヶ月~3年
1)の基礎音楽課程 (Foundation in Music)は、前述の同国の教育制度の上級中等課程をパスした生徒が進む「大学準備課程」 のマトリキュレーション・コースのひとつである。
日本の感覚から見ると、大学が1年の基礎課程と3年の専攻課程の4年制と誤解しがちだが、そうではなく、マレーシアの学士は3年間課程ということである。(イギリスやオーストラリアの制度に似ている)
そうした制度の中での音楽学部の入試は、まず大学準備課程の成績に加えて、英語の能力試験(TOEFLやIELTS)の一定の成績が前提となっており、加えて、専攻試験(3つの異なるスタイルの作品、スケール、アルペジオ全調他)それに視唱と楽典で構成されている。
現在の学生数は約350名で、専攻としてはピアノと声楽が多く、弦楽器がそれに次ぎ、管打楽器はやや少ないとのこと。ただし、オーケストラは不足の楽器を卒業生が補うことによって活動できているという。
なお、クラシック音楽学科(端的に言えば西洋音楽)と並ぶもう一つの学科である現代音楽学科(Bachelor of Contemporary Music)であるが、この国では、ジャズやポップスのことをコンテンポラリー音楽と呼ぶらしい。なので、こちらの学科はジャズ、ポップス、それに音楽ビジネスなどを専攻する学生が学んでいる。
学部長のフア教授によると、卒業生の就職率は90%を超えており、音楽教師(学校教員、インターナショナル・スクール、音楽センター、教室、ヤマハなど)の他、レコーディング産業などの音楽関係企業、演奏家など音楽分野多岐にわたっているとのこと。カリキュラムは卒業後のキャリアパスを十分考慮したものになっており、必修として全学生にピアノ(Keyboard Skill)を習得させること、またコンピュータ・ソフトウエアによるノーテーションやMIDIの使用、マレーシア音楽産業研究、さらに企業へのインターンシップも必修にしているとのことだった。ちなみに、インターンシップは大きな成果を上げているようで、多くの学生がインターンシップで体験したその企業に就職することができるそうである。
実は、UCSIは、教育機関だけでなく、医療、コンサルタント、ホテル、財団など20近くの機関を抱える一大グループ企業体でもあり、そうしたグループ企業体としての知識と経験の集積が教育カリキュラムにも色濃く反映されているのだろう。
大学のカリキュラムとは別に、イギリスのABRSMやTrinity大学、あるいはヤマハのグレード取得に多くの学生がチャレンジしているそうだ。大学ではとくに推奨しているわけではないが、進路によっては卒業後のキャリア形成に有効である考えられるためである。
- ABRSMのグレード・システムについては、ベトナム編でも少し触れた。マレーシアでは、これと並んでイギリスのTrinity大学のグレード取得が非常に盛んで、両方の受験者数は世界でイギリス本国に次いで2番目の多さだそうである。ヤマハのグレード試験も多くが取り組んでいるとのこと。
ABRSM
Trinity College Grade Exam.
UCSI大学では、ピアノ教育の振興目的として「国際ピアノ・フェスティヴァル&コンペティション(UCSI International Piano Festival & Competition)」と「ピアノ教授法コンフェランス(Piano Pedagogy Conference)」を毎年交互に主催している。
2018年は第3回目となるフェスティヴァル&コンペティションが6月6日~10日の5日間にわたって開催された。(予備審査は5月24日、25日)部門は、
ジュニア・中級 (Intermediate)・シニア・ヤングアーティストの4カテゴリーで、今回の参加者は約130名を超えていたとのこと。ファイナルの演奏時間を見ると、ジュニア10分、中級20分、シニア25分、そしてヤングアーティスト40分とあるので、とくにヤングアーティスト部門はかなりの実力が必要と思われた。
審査委員はフア先生を含む、同大学教員をはじめ、海外から米国、カナダ、インドネシアなどから招聘されたチームである。
期間中には審査委員たちによるリサイタルやセミナーなども随時開催され「国際フェスティヴァル」の名に恥じない厚みのある内容となっている。
クアラルンプールにある、同国唯一の国立芸術大学。1996年に前身校が創立され、2006年に学士から博士までの学位を授与することができる最高教育機関として認められ、大学名もASWARAに変更された。なお、国立大学ではあるが、上部組織は教育省ではなく、文化芸術省である。(ベトナムでもホーチミン音楽院は文化省の管轄下にあった)
学部構成は次の8つ。
- 音楽(Faculty of Music)
- ダンス(Faculty of Dance)
- 劇場(Faculty of Theatre)
- 創作(Faculty of Creative Writing)
- 映画・TV(Faculty of Film & Television)
- 芸術・文化マネージメント(Faculty of Arts and Cultural Management)
- アニメーション・マルチメディア(faculty of Animation & Multimedia)
- ヴィジュアル・コミュニケーション・デザイン(Faculty of Visual Communication Design)
以上の各学部には、ディプロマ・コース(3年)も併設されている。
お話を伺ったのはピアノ科主任のタン・リー・ファン Tan Lea Fung先生。
音楽学部の学生数は現在191名。専攻(ASAWARAではModuleと呼んでいる)は下記のように分けられている。
- 演奏モジュール
- 作曲・テクノロジー・モジュール
- 音楽プロダクション・モジュール
- ビジネス音楽モジュール
演奏モジュールは声楽系と器楽系に大別され、西洋音楽だけでなくマレーシア、中国、インド他の民族音楽、さらにジャズなども含まれている。ちなみに声楽系は約60名、演奏系のピアノは22名だそうだ。
他のすべての大学同様に大学準備課程の修了と全国共通検定試験*の成績よび英語の能力検定の結果に加えて、面接時に演奏と視唱が課せられる。
- UCSI同様、ASWARAにも大学予備課程と同等の基礎勉学課程(Foundation Studies)コースも用意されている。また、同大学は国立なので、ブミプトラ政策であるマレー系学生優遇処置は取られているとのことだった。また、面接時にABRSMやTrinityのグレード取得も考慮されるとも聞いた。
ファン先生によると、同音楽学部では入試の時点では総合的な音楽能力の可能性を見ることに重点をおいている。そのため、入学後も一年間は専攻をとくに決めないで、2年次から専攻を振り分けるというシステムとなっているという。また副科楽器もピアノではなく民族楽器を推奨している。これもマレーシア国立芸術大学の特徴の一端を示しているといえよう。ピアノのカリキュラムも見せていただいたが、各セメスターで各調のスケールやアルペジオ、カデンツが段階的にマスターできるよう基礎に重点をおいたものだった。
クアラルンプール最後に訪問したのが、UiTMの音楽学部。UiTMは創立1960年の国立総合大学で、マレーシア全国に35のキャンパスをもち、学生数は学部生だけでも約190,000人を数えるという。その学部(Faculty)数も25に及び大変に大きな総合大学である。音楽学部は1984年に学科として創設され、2006年に学部に昇格した。また、この大学の大きな特徴は、ブミプトラ政策により、マレー系の学生しか入学が許可されない、つまり、マレーシア国籍であっても、中国系やインド系など人種が異なると入学できないことになっている。
音楽学部はクアラルンプール・セントラル駅から電車で約40分、シャー・アラム市にある。緑豊かな美しい丘陵地である。
お話を伺ったのは、ラモナ・モード・タヒル教授 (Dr. Ramona Mohd. Tahir)。 教授とは、私が2013年以来毎年参加しているSEADOM (Southeast Asia Directors of Music)という国際会議を通じて旧知であり、また教授は私が前職の国立音大も訪問されたこともある。ご専門は音楽教育学。
音楽学部学科構成は次のとおり。
- 音楽教育 (Bachelor of Music Education)(4年)
- 作曲 (Bachelor of Composition)(3年)
- 演奏 (Bachelor of Performance)(3年)
- 音楽ビジネス (Bachelor of Music Business)(3年)
- 以上の他、2年半(5セメスター)のディプロマ・コースもあり。
大学院の学位構成は
- Master of Music Education
- Master of Music
- Doctor of Philosophy (Music)
以上で目を引くのは、音楽教育学科が4年間の修業期間となっていることだろう。ラモナ先生に伺うと、音楽教育学科は、通常の3年間の勉学に加えて、実際に地方の学校などに出かけて教職体験する実習を重視しており、そのためにどうしても4年間が必要であるという。また、当然副科としてピアノ(キーボード)は2セメスター課しているそうだ。
入試の内容は、他の大学と同様に大学準備課程の全国検定試験の結果、およびマレーシア語と英語の能力認定、さらにどの学科も数学と歴史の成績が必須となっている。もちろん、加えてと専攻楽器の演奏、視唱、聴音などが課せられている。基本的には、将来の可能性と本人の意識を見るために面接は大変重要と考えておられるようだ。
タヒル先生は音楽教育学がご専門で、しかもマレーシア音楽教育学会の会長も務められているだけあって、音楽教育学科に大きな誇りと情熱を持っておられるようだった。
マレーシアの学校教育では、1984年以来、小学校では音楽が必修科目となっていたが、2017年から美術と音楽が「芸術」という科目にまとめられ、現在では美術と音楽の比率が2対1となってしまったと残念がられていた。
2回にわたって、マレーシアの音楽教育事情についてレポートしてきた。
訪問した3つの大学は、各々が対照的な特徴をもっていた。
私立の総合大学であるUCSIは、インターンシップを必修にして、学生と企業との直接的な関係構築を作り上げ、学生のキャリアパスを重視する教育。そこには、巨大なグループ企業体としての、大学のもう一つの顔も見えてきた。
国立の芸術大学であるASWARAは、どの学生にもマレーシアの伝統楽器を課すなど、国立であるが故のカリキュラム、またそのために音楽能力としては、まずは1年間の基本的なスキルの獲得を経て、専攻をもたせていく・・・。ここには、技量よりも学生個々の可能性を引き上げていくという教育方針が感じられた。
国立総合大学のUiTMはマレー系の学生だけが入学できる大学で、音楽教育学科に大きな特徴をもっていた。ラモナ先生によると、マレーシア国内に学科としての音楽教育というプログラムを持っている大学は2校しかないそうだ。
マレーシアの教育制度については、前回のレポートで簡単に触れたが、大学入学試験がUCSIのように1月、5月、9月と年3回実施される大学が多い。そのため、帰国子女が入学し易く、逆に海外への留学もし易いように考えられている。また、海外大学との単位互換やダブル・デグリーなどのシステムもかなり精緻に構築されているため、留学へのハードルが相当に低いのも大きな特徴である。
マレーシアでは教育省が作成した全国共通試験を経なければ、上級学校に進めないと述べたが、各大学の入学要件には大学準備課程修了時の試験結果の獲得ポイント数まで細かく指定されている。ということは、入学してくる学生の修学能力がほぼ一定以上であることを意味しており、そのため大学のカリキュラム構成を無理なく編成することが可能となっていることも見逃せない事実だろう。
ブミプトラ政策(マレー系優遇)は、歴史的背景から社会的・経済的に恵まれていなかったマレー系の人たちを、中国系などの人たちと同等あるいはそれ以上に押し上げようという国家的な政策だが、今日では問題視する意見も多いと聞く。ただ、こと教育に関しては、学校格差は少なく、全生徒が全国共通試験を受けることによって希望する大学にチャレンジすることができる。
我が国も参考にすべき点が多々あると思うのだが・・・。
前 国立音楽大学演奏部事務室・学長事務室室長
現在、タイ・バンコク市近郊のマヒドン音楽大学(College of Music. Mahidol University)客員教授としてタイ在住。
ピティナ正会員、日本音楽学会正会員