ピティナ調査・研究

第13回:伊藤英三さん(ピティナ 宮城支部/宮城)

第13回:伊藤英三さんピティナ 宮城支部/宮城

私たちピティナの活動は、各地域の音楽教室の先生方の熱心な活動によって支えられています。しかし音楽教室だけでは、地域固有の複雑な人間関係や利害関係が絡むことも多く、どうしても一丸となってまとまりにくいのが実情です。各支部が、活発に活動できているのは、黒子となって束ねることに誠心誠意尽くして下さる方々がいるからです。
私たちは、そのような方々を、「エリア・ミュージック・サポーター(AMS)」とお呼びし、これまでご一緒した取り組みを、この連載を通じて1年にわたりご紹介して参りました。その中には他の地域でも応用できる取り組みや、生徒集めの役に立つ数多くの情報が寄せられました。あまりに「いい話」でほろりとすることも・・・
ご紹介したAMSの人数は、2ケタに乗りましたが、調べれば調べるほど奥が深く、ご紹介したい方は増えるばかりです。今後もできる限りご紹介していきますので、地域の活動にお役立て願います。 引き続き、大内孝夫さんによるインタビューを通じたシリーズをお楽しみ下さい。

取材:大内孝夫


今や全国隅々にあるピティナの支部。歴史を遡ると、1978年に誕生し、その後各地に広がった。東北では翌79年に福島県浜通り支部(現福島支部)が、そして80年に今回取材させて頂いた宮城支部が相次いで誕生している。宮城支部長の伊藤英三さんは当時、サンリツ楽器の社員としてその設立に関わった、ピティナの生き字引的存在。今回はその伊藤さんを通じ、これまでのピティナを振り返ってみたい。


設立当初の様子をお教えいただけますか?

宮城支部は故福田靖子先生の情熱の中から生まれたのですが、当時の宮城では、まだまだピティナがピアノ指導者の間に浸透しているとはいい難い状態でした。それでも私は、福田先生のお話に共感を覚え、勤務先のサンリツ楽器でピティナ支部をお受けすることにしたのです。

旧来からの勢力があるでしょうから、生みの苦しみですね。当時のピティナはある意味新興勢力ですから、何かとやりにくい部分があったのではありませんか?

そうですね。ある年の地区予選に福田先生が視察に来られた際、下手な演奏をした生徒の先生にかなり厳しいことを仰って、一部の先生の心がピティナから離れたことがありました。次は自分が同じ目に遭うかも、という心理でしょうか。それに乗じるように、ある大学教授から『ピティナの支部を続けるなら、大学はサンリツとの取引を切る』とまで言われたことがあります。

それは大変でしたね。

その時サンリツの経営者から、どう思うかと問われました。確かに福田先生のご叱責は、やや厳し過ぎるとは思いました。しかし、裏を返せばピアノ教育への情熱の現れ。私は迷わずピティナ支部の継続を進言しました。それに、ここでその教授の言いなりになったら、サンリツは大学に頭を下げ続けなければなりません。この教授の発言が本当に大学を代表したものか、との疑念もありましたので、強気の姿勢で臨みました。

宮城支部の危機を救った伊藤さん。だが、そんな伊藤さんに転機が訪れる。1996年、伊藤さん53歳の時である。

サンリツ楽器を退職したのです。今思うと40代は営業成績が常にトップで、天狗になっていたのかもしれない。もうピアノはいいや、と一種やり切った感も手伝って、音楽以外の会社に勤めようと、実家のある千葉県東金市で仕事を探しました。でも、何かが心の中で引っ掛かった。どうしようかな、と思っているときに、ミリオン楽器から声が掛ったのです。

楽器店はもうよかったのでは?

そうなんですよ。でも、サンリツでは子どもたちから元気もらったなぁ、と思い出で耽ったり、3歳にも満たないお子さんから90代の生徒さんまで、幅広い世代と接することができる仕事って、医者と音楽関係しかないんじゃないか、なんて思ったり。音楽に携わる魅力は、他の職種では決して味わうことはできない、と改めて思い至ったのです。結局ミリオン楽器のお世話になることにし、南浦和店を皮切りに、楽器店人生に復帰しました。

2016年8月3日~5日
於:多賀城市文化センター 小ホール
新体制の宮城支部で初めてのコンペティション地区本選を運営
多数の褒賞・特別賞が集まることが東北エリアの本選の特徴です
伊藤英三さんによる手書きの「副賞割り振り表」

当時のミリオン楽器は、ピティナ支部をやっていなかったとか。

ええ。それでも宮城でのご縁がありますから、福田専務理事や堀さんが来て下さり、結局大宮西支部をミリオン楽器が引き継ぐことになりました。そこからは地元の和幸楽器さんと競いながら、双方がピティナ支部を発展させ、社業を拡大していきました。

そんな伊藤さんに再び転機が訪れる。既に定年を迎え、社業も順調だったから、いつでも辞められる状態にあった伊藤さんに、ピティナの堀さん、倉持さんが重い話を持ち掛けたのだ。

宮城支部が支部として機能していない、と訪ねて来られてね。『仙台に行って新たな組織に立て直してくれないか』と。本当に困ったご様子だったので、私でお役に立てるなら、と再び仙台に行く決心をしました。大体1年で旧支部を閉鎖し、新たな組織に衣替えしました。今はお若い先生を含め、多くの方が積極的に支部活動を支えてくれています。

2017年3月28日支部総会
2018年1月27日支部主催入賞者記念コンサートに宮城出身の菅原望さんが出演

最後に、ピティナで最も印象深い出来事をお教えいただけますか?

う~ん。それはやはり福田靖子先生がお亡くなりになったときですね。福田先生は行動派でしたが、おカネには頓着しませんでした。その窮地を救ったのがご子息の福田成康さんでしたが、靖子先生が亡くなって間もなく、彼をある東北の温泉旅館に誘い出し、当時のピティナ主要メンバーをまじえて、子どもたちのピアノの学びを止めないために、これからもピティナを支え続けてほしい、発展させてほしい、と激励したのです。

福田専務理事のその後の活躍は、ご存じの通り。ピティナの難局を乗り越えてきたのみならず、日本一のピアノコンクール団体にまで育て上げた。そしてこのコロナ危機も、克服しつつある。
杜の都、仙台。そこには50余年にわたりピティナが紡ぐ歴史の中で、数々の危機を乗り越えた秘話が眠っていた。

取材日:2020年9月18日