第41回「異名同音」
『エスキス』の魅力をひとくちで伝えるのはいかにも難しい。なにしろ、この曲集のいちばんの特長は何といってもその恐ろしいばかりの多様性で、それを実感するためには本来49曲すべてを知る必要があるからです。けれどもいきなり「全曲聴いてみてくれ」と言われたって、なかなかその気にはなれませんよね。中身について何か語った上で「あとは聴いてくれ」と言わないとダメだ。
まずは「たとえばこれこれこんな曲が入ってるんですよ!」と、特別とんがった曲をいくつか選んで紹介してみるのがわかりやすい方法でしょうか。曲単体のアイディアの妙味を伝えると同時に、多彩さのアピールにもなる。決してとんがったところばかりが魅力の曲集ではないけれど、とっかかりとしてはその辺りが最適でしょう。
そんなとき、「とんがった曲候補」としてどうしても選びたいものがいくつか出てきます。人によってそのチョイスは違うかもしれませんが、きっと誰が選んでもだいたい候補に残るだろう、と思える曲のひとつが、今回の「異名同音」。アルカンの非凡さや遊び心が存分に発揮されていて、前衛的な部分と伝統に連なる部分の両方が色濃く感じられる小品です。
「異名同音」という言葉についてちょっとご説明。たとえば「ソの#」と「ラの♭」は名前は違いますが、平均律で考えれば音の高さはまったく同じです。ピアノでも同じ黒鍵にあたりますね。こういう関係を「異名同音」と呼びます。ただそれだけの単純なことなのですが、12平均律の自由自在な転調の仕組みを象徴する言葉でもあり、深く考えればキリがない概念です。
で、そのキリのなさを実際に掘り下げてみたのがこの曲というわけ。面白い転調が頻出し、一部では無調の世界に踏み込むような前衛的な作品となっています。特に前半に出てくる、すべての音符に臨時記号がついたフレーズなど、見た目も響きも現代音楽そのもので、ついつい「調性からの脱却を果たした最初の作曲家はアルカン!」などと叫んでみたくなる。
少々専門的な話になりますが、アルカンがこの曲でどんなことを試みているのか解説してみましょう。
まずひとつめは、1小節目の2拍目頭に出てくる和音のような例です。変位(和音を構成する音を本来の音からずらすこと)を駆使して、ひとつの和音の中に異名同音となる2音を共存させる、という手法により、本来の機能和声からはずれた見せかけの協和音を作り出している。
この音、耳で聴くと普通の「レファラ」の和音のように響きますが、実は譜面上では「レ、ミ#、ファ、ソ##」という構成。理論的にはまともな和音ではないはずですが、異名同音のおかげで綺麗に響くわけです。
次に、9小節目の2拍目裏などに見られる不協和音の作り方。この和音の構成音、音符だけ見れば「ファ」と「レ」だけでできているのだけれど、「ファ」と「ファ##」、「レ」と「レ##」が共存しているので、響きはグチャグチャです。理屈としては、減七の和音を基本に、二重の変位を用いて不協和音を作り出しているだけなのですが、完全に調性が崩壊しているように聴こえる。ロマン派の時代にこれほど大胆な音の使い方をした作曲家はちょっとほかに見当たりません。
もうひとつ重要な実験が、和声の構成音を異名同音で読み換えることによる転調です。特にわかりやすいのが32小節。1拍目の変イ長調の属七の和音のうち、「ソ」と「ミ♭」のふたつを変位音として捉え直すことで、2拍目でロ長調の属七へと変化させ、一瞬で転調を果たしています。これは、理論的には問題なく解釈可能な機能和声の利用なのですが、耳で聴くと強烈な違和感が残ります。和声理論を推し進めるだけで、通常の調性感から逸脱してしまえるということの証とも言えるでしょう。
――これらの実験的要素こそがこの曲の主眼となっていることは明らかで、つまりアルカンは「異名同音」という概念をいじって楽しむ、ただそれだけのために1曲書いたということ。ロマン派の音楽観からかけ離れていることがよくわかります。
実はこの曲の前衛性というのは、バロック時代フランスの重要な作曲家であるラモーの意識を受け継いだものでもあるんですね。ラモーは作曲家であると同時に、機能和声の仕組みを最初期に体系化した理論家でもあった。だから、和声理論拡張の可能性には大きな関心を抱いていました。実はラモーの作品にも、実験的な転調を駆使した「異名同音」というタイトルのクラヴサン小品が存在する。アルカンは間違いなくその作品を意識していたことでしょう。
ちなみに日本語にするとどちらも「異名同音」になってしまいますが、原語ではちょっと違います。ラモーの曲のタイトルは "L'enharmonique" で、アルカンの曲はそれを複数形にした "Les enharmoniques" なのです。複数形にすることで、ラモーより面白いことやってやろう、という意思を表しているんでしょう。
「異名同音って、ラモーが考えてたよりずっと奇抜な使い方ができるよね」
というアルカンのつぶやきが聞こえてきそうです。
演奏の際は、強弱の指示や楽語標示によく注意してください。異名同音による強烈な和音や転調を、どうやって活かしていくか、アルカンは細かく伝えてくれています。なるべく「当たり前」な音楽からかけ離れたものにできるよう、変化すべき場所では大げさに。変り身の早さを心がけましょう。
ではでは次回、「5声の小さな歌」にて。
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