ピティナ調査・研究

第33回「ねんねしな」

芸術文化のあり方というのは面白いものだなあ、といつも思います。個性だとか独創性というものが大きく評価される割に、実態は随分と保守的で、完全に枠組みをはみ出したことをやっている人にはまるっきり理解がなかったりする。軽蔑だってする。そうこうしているうちに文化の本流だったはずの場所はだんだんと活気をなくして枯れていき、軽蔑されていたはずの界隈から新たな流れが生まれてくる。

何かのルールに拘束されることを積極的に面白がるのが人間のサガなのかもしれない。そうやって自分たちでルールを決めて「分野」として囲っては、少しずつそれを複雑で細かいものにしていく。ルールが細かく複雑になればなるほど、その分野には洗練され、工夫を凝らした作品が増えていく。しかし複雑になりすぎたルールによってやがては分野全体ががんじがらめになって、ルールごと崩壊していく。それは人間の営みそのもの、あるいは生き物の姿そのものに似ているようにも感じられて不思議に愛しい。

こんなサイクルは常に繰り返されてゆくのでしょう。ある限度以上に発展した分野が次第に硬直していくのは悲しいことではあるけれど、避けられないことでもあります。本当に新しい分野が誕生するとき、それは知識も洗練も積み重ねも何もない場所から湧いてくるはず。しかし、発展を重ね、複雑な約束事に縛られた分野で頑張ってきた人間にとって、そんなものは唾棄すべき子どもの遊びに見える。当然といえば当然のことです。

たとえば子どもの時分からピアノとソルフェージュを習って、青春時代を和声法と対位法と12音技法の技術習得に費やし、大作曲家たちのスコアを見ては管弦楽法を研究してきたような人がいるとする。その人は当然ながら自らの獲得してきた技術や、獲得のために費やした努力を価値あるものと考え、誇ることでしょう。それは何も間違っていない。価値はあるに決まっているし、大いに誇りに思ってしかるべきです。

でも、その努力の価値が、音楽そのものの価値と心の中で一緒になってこんがらがってしまうと、おかしなことになる。いや、こんがらがるというか、もともと完全に分けて考えられるようなものではないのかもしれない。だからといって、音楽を作るなら私と同じ努力をしろ、しないならその音楽に価値はない、などと考えてしまうとしたら何か違います。

10代の若者が小遣いで機材を買って、音楽理論の知識などほとんどゼロのままで「気持ち良い音」を探していじり倒しながら作ったクラブミュージックにだって、もしかしたら緻密に作られた交響曲に勝るとも劣らない閃きや独創性、人間の心を揺さぶる何かが隠されているかもしれない。才能は努力の価値で計るものではないはずなのです。

けれど、積み上げられた技術をないがしろにする姿勢は絶対に好ましくないし、ある程度の知識・教養があってこそ興味深いアウトプットができるものだ、という考え方もある。それをきっぱり否定できる人なんていないでしょう。じゃあなんだ、どうしろってんだ、という話になるんですが、結局は「バランス」が重要ということでしょうか。文化の本流に近い人はできるだけ頭を柔軟に。本流から外れている人はそれを言い訳に勉強をサボってちゃだめだぞ、と。

個人的な好みを言えば、しっかり勉強をした人がそのことを振りかざすでもなしに飄々と変なものを作ってしまう、というのに惹かれます。真に独創的であるとはそういうことではないかなあ、と。本当に新しくて面白いことをはじめるのはそんな人なのではないか。しかつめらしく、いかめしく、肩をいからせて「新しい理論を考えました」などと発言する人ではなしに。アルカンを好きであるというのは、そういう私の趣味の問題も大きいのかもしれません。

さて、今回の『ねんねしな』は変イ長調の曲ということになっていますが、いわゆる機能和声とはちょっとずれた和音の進行になっています。旋律にも変ト音が出てきて、ドリア旋法のような響き。アルカンは「調性をぶっこわす」などとは言わないし、本人にもそれほど実験的なことをやっているつもりはなかったのだと思います。だのに、こうして易々と常識の壁を破ってしまうのです。

機能和声や終止定型などが出てこないことで、たゆたうような雰囲気の音楽になっています。何気なく、やわらかく、母親の歌う子守唄のやさしさをよくイメージして弾きましょう。終わりの方の休符は子どもが寝ついたことの表現です。決して唐突な印象を与えないように、ペダルなどにも気を使いましょう。

ではまた。次回の曲のタイトルは、「私は衆愚を嫌い、彼らを遠ざける/静粛に!」です。


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