第31回「四重奏の冒頭」
今回はアルカンの失われた曲たちについてちょっとお話してみたいと思います。
『エスキス』第31曲は「四重奏の冒頭」ということで、タイトルの通り弦楽四重奏を模したものとなっている。古典派のカルテットの明朗な響きがそのまま聞こえてくるような見事な模倣だと思うのですが、ふと素朴な疑問もわきます。
なぜ実際に弦楽四重奏として書かなかったのか?
いや、そう言ってしまうと語弊があるかもしれない。もちろん、真面目に弦楽四重奏を書くのと、古典派四重奏のパロディをピアノ曲として書くのはだいぶん意味合いが違ってくる。アルカンはニヤリとできる軽い作品を作りたくてこの「四重奏の冒頭」を書いたのだろうから、そこにツッコむのは野暮というものです。
しかし、上手な模倣、ニヤリとできるほどの模倣をするためには、パロディ元について知悉している必要がある。弦楽四重奏であれば、それぞれの楽器がどんな音域を担当し、どういう奏法があって、どう組み合わせればどんな音がする、――そんなことを理解した上で再現していかねばならない。アルカンなら、実際の弦楽四重奏だって書くことができたのではないか?
現存するアルカンの楽譜はそのほとんどがピアノ、オルガン、そしてペダル(足鍵盤)つきピアノという3つの鍵盤楽器のためのもの。その3種以外の楽器が用いられた作品は本当に数えるほどしかありません。2つの室内ピアノ協奏曲と、3つの室内楽――ヴァイオリンとピアノのデュオ、チェロソナタ、ピアノ三重奏――、そしてあとは声楽曲が両手の指で足りるほど。
......なのですが、実は、アルカンにはいくつも失われた非鍵盤曲があることが知られています。弦楽のための室内楽曲も少なくとも数曲は完成させていた、という記録がある。弦楽四重奏曲、弦楽五重奏曲、弦楽六重奏曲などなど。ただし、そのいずれも未出版で、文献にちょっとした記述が残るのみの存在です。自筆譜そのものも失われたまま見つかっていません。もっとも、四重奏については自筆譜の一部が残っているのですが――最初の6小節ぶんだけなのでした。
さらに、なんと交響曲も、未出版のまま失われてしまっているようなのです。交響曲! 作曲家が全能力を振り絞って書いたに違いない作品です。なんとも言いようがない。もともと数少ない非鍵盤音楽の大曲がことごとく喪失しているというのは、悲劇ということばでは言い表せないほど残念な事実ではありませんか。
しかし、ある意味、楽譜が失われる以上に悲しい運命に見舞われた曲もある。上でちらりと触れましたが、鍵盤音楽の中にある「ペダルつきピアノのための曲」のことです。これは何しろ、楽器の方が失われてしまった。
ペダルつきピアノについて説明すると、普通のグランドピアノの下にもうひとつ、低音用の箱をとりつけて、オルガンよろしく足鍵盤を取り付けた楽器と考えていただけるとわかりやすい。ロマン派の時代にはそれなりに生産されていたようで、シューマンなどもこの楽器のための曲をいくつか残しています。
アルカンが後期に力を注いだのがこのペダルつきピアノのための曲で、それは2本の手だけで演奏するピアノでは表現しきれないほど壮大なものを表そうとする試みでもあった。本来ペダルつきピアノにはオルガンの代わりという意味合いもあったはずですが、アルカンはあくまでピアノの限界を拡張するものとしてこの楽器をとらえていたように思えます。
今現在、ペダルつきピアノというものは特注しないと手に入らないような珍品となってしまった。ペダルつきピアノの名手、などという存在も寡聞にして知りません。もちろん、例えば2台ピアノを用いれば曲の再現は不可能ではないでしょう。しかし、スペシャリストとしてその曲を演奏できる人はおそらくもう出てこない。アルカンが弾いたように弾ける人、演奏の喜びを味わえる人はもう2度と生まれないのです。
さて、「四重奏の冒頭」演奏上の注意点。言うまでもなく、なによりも大事なのは弦楽の響きを思い描くことです。スタッカートがついていても鋭角的に演奏してはなりませんし、レガートは極めてレガートに演奏すべきです。4人の掛け合う場所、ユニゾンになる場所など、場面ごとに呼吸の使い方を工夫する必要があるでしょう。スラーについては、ボウイングの模倣ということではなく、普通のピアノ曲にあるスラーと同じ意味で捉えて構わないと思います。
ではでは、次回「小メヌエット」をお楽しみに。
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