ピティナ調査・研究

第15曲「協奏曲のトゥッティ」

古い時代の作品に対峙するとき、私たちは色眼鏡を通して見てしまいがちだ。

現代の誰にも超えることのできない偉大なものとしてあがめるか、逆にカビの生えたつまらない遺物として軽視するか。いずれにせよ、現代の作品に対するのと同じように、素直に接することは難しい。

今も昔も、人は喜怒哀楽を表現したり、面白いことを見つけてそれを分かち合ったり、やっていることにあまり変わりはないのに、なかなか素直にそう受け取れない。この時代の作品ならこんな感じでしょ、とステレオタイプに勝手に当てはめておいて、想像と違えば「昔の作品なのに意外と変わったことやってるな!」などと驚いてしまう。どうも私たちにはそんな習性があるようです。

ところで、ここ最近の潮流として、古楽の再発見というやつがある。これまでは、クラシック音楽の歴史を辿るとき、バッハあたりまでは偉大な芸術として受け止めるけれど、それより古い音楽は芸術以前として相手にしない、そんな傾向がありました。リズム感もなしにゆっくり動く旋律線と、5度の音程ばかりの和音でできた、おとなしくて退屈な音楽――そんなイメージがなんとなく植えつけられていたのです。

しかし、どうも実態はまったく違ったらしい、ということがさまざまな人の手によって明らかになってきました。破天荒な不協和音、躍動するリズム、アイディア溢れる実験の数々がそこにはあった。バッハ以降の音楽の方が、実はよっぽどおとなしかったのです。

この古楽の復興は、現代ならではの現象のような気がします。近年の情報社会は、私たちの視野を少しずつ、しかし確実に広げてくれている。古いものも新しいものも、近所のものも遠くのものも、全てが平等にデータとして蓄積され、気軽に触れることができる環境になってきているからです。なんだ、場所が違っても時代が違っても、面白いものは面白いし凄いものは凄いんじゃないか、という当たり前なことに、ようやく私たちは気づけるようになってきた。

しかし、私たちのような恵まれた環境にいなかったにも関わらず、同じくらい柔軟な態度を取れる人間もいました。アルカンがそうです。

アルカンはほかのロマン派の作曲家たちと比べ、古い様式への愛着が非常に強い。前回のスカルラッティのパロディもそうだったけれど、今回の曲、「古い様式による協奏曲のトゥッティ」もまたそのことを表す好例です。

それで、この「協奏曲のトゥッティ」で特に興味深いのは「ソロ」部分のメチャクチャな半音階的オブリガート。ソロ奏者が失敗でもしたのか?と思うほど前衛的なのだけど、これはもしかすると、ロマン派の美しい響きばかりに慣れた当時の人々へアルカンが送ったメッセージなのかもしれない。「古い時代には、こんな面白い音も自由に使って構わなかったんだよ」というような。

いずれにせよ、アルカンが古いものも新しいものも分け隔てなく面白がり、共感できる人だったことは確かです。もしかすると、アルカンは進歩的、前衛的というよりも、むしろ古楽の自由な精神の正統的な後継者として位置づけられるべきなのではないか。だからこそ、古楽と同じく、この時代になってようやく再評価がなされようとしているのかもしれません。

さて、今回の曲を演奏するに当たっては、やはり合奏という感じが出るように各パートの絡みをよく聴くことが大切。トゥッティ部分は「メッツォ・スタッカート」の指示通り、基本的にすべての音をマルカートで弾きましょう。ソロとトゥッティの交代する部分は、音量差をつけるのはもちろん、リズムの感じ方にも変化をつけるとより良い雰囲気が出せるでしょう。

それではまた。次回「幻想曲」をお楽しみに。


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