ピティナ調査・研究

第09曲「ないしょ話」

『エスキス』は、いわゆる性格的小品集と呼ばれるものだ。性格的小品というのは、短い器楽曲(主に鍵盤音楽)のこと。短いだけに曲の中身ははっきりとした性格を持つことが多いので、それに即して具体的なタイトルがつけられていることもしばしばです。

この定義、現代的な感覚からするとずいぶんと幅が広く感じられる。現在あるポピュラーピアノの曲は、無理にジャンル分けするなら、ほとんどがこの性格的小品になるんじゃないでしょうか。つまり性格的小品とは、21世紀の今日、巷でもっとも幅を利かせるジャンルというわけですが、その起源は古く、一般的に、16世紀リュート楽派の音楽などに遡ると言われています。個人的には、もっとずっと昔、楽器の誕生とともに生まれた音楽は性格的小品という概念に近かったんじゃないかなぁ、などと思いますけど。

ピアノ音楽に関して言うと、性格的小品というのはもっともプリミティブなスタイルなのではないか。鍵盤楽器というのは、ひとりでいくつもの音を鳴らして、ひとりで音楽を完成させるのに適しています。これ、逆に言うと、とても個人的な――孤独な――楽器である、ということ。たとえば、オーケストラに協奏曲のソロ以外でピアノが加わることなんて滅多にありませんよね。音楽大学なんかでも、ピアノ科の学生は、ほかの器楽のひとたちがわいわいとオケの授業を受けるのを、なんとなく羨ましく思いながら指をくわえて眺めている(経験者談!)。

話がそれましたが、鍵盤楽器というのは、個人的な思いつきを表現するにはもってこいです。だから、脳内の何らかの心情や風景から発想した音楽を、ちょちょいと短くまとめて弾いてみる、というのは、鍵盤楽器を前にした音楽家のいちばん自然な行動だと思う。

しかし、そんな当たり前なはずの音楽にわざわざ性格的小品、なんて名前がつけられたのにはわけがあって、ハイドンやらモーツァルトやらの古典派の時代にはこうしたスタイルが一旦ほとんど表に出てこなくなってしまったからなんですね。

ベートーヴェンなんか、実はかなりの数の性格的小品を書いてますが、それらに『バガテル(つまらないもの)』なんて名前をつけてるくらいだ。それほどに、性格的小品への世間的な評価は冷め切っていたということでしょう。後期のバガテル集など、本当に涙が出るほど素晴らしい内容なんですけどね......。

こうした短い曲も芸術として味わえるんじゃないか、という機運が高まってきたのは、19世紀も半ば、ロマン派の時代になってからだった。18世紀バロック時代のクラヴサン楽派によって作られた性格的小品の再評価もなされます。個人の内面や感情を重視するロマン主義に、性格的小品というスタイルがピッタリはまった、ということなんだろう。そんな流れの中で、小品を集めてより大きな作品として成立させるための「小品集」の作り方も洗練されてゆき、アルカンの『エスキス』にたどり着くのです。

さて、はじめの方に、性格的小品には具体的なタイトルがつけられていることもしばしば、と書きましたが、そうでない物ももちろんたくさんある。前回も例に挙げたショパン『前奏曲集』もそのひとつです。曲の性格はそれぞれはっきりしているけれど、タイトルとしては表されていない。「雨だれ」と呼ばれている曲がありますが、別に作曲者がつけたわけではない(し、個人的には良いタイトルとは思えない)。『エスキス』はこれに対し、すべてにタイトルがついています。

これまた現代的な感覚からすると、曲にタイトルをつけないなんてちょっとした怠慢にすら感じられる。歌詞のある歌は当たり前としても、インスト曲にだって普通はタイトルをつける。何かのサウンドトラックにだって、普通は売る前にきちんと1曲ずつ名前を与えますよね。それは聴き手とのコミュニケーションを高める手段でもあるし、曲への愛情表現でもある。作曲者のエスプリを見せる手立てにもなり得ます。

しかし、連載の中で以前に書いたとおり、昔は「絶対音楽」という概念の問題などもあって、音楽の外からイメージを引っ張ってくるのは良くない、といった風潮があった。そのことを考えると、『エスキス』のように曲集中の49もの小品すべてにタイトルをつけるというのは、むしろ挑戦的な行為と捉えることも可能なのです。

今回掲載の第9曲は「ないしょ話」。アルカンは既存の性格的小品のあらゆるスタイルの模倣を試みましたが、これはメンデルスゾーンの無言歌を意識したもの。旋律をなめらかに演奏することを心がけましょう。メンデルスゾーンとは違い、後半に出てくる半音ずつ下降する部分をはじめ、転調によって色合いを変える場面が非常に多いので、意識して対応しましょう。 dolce と dolcissimo の違いに注意!

それではまた次回、「叱責」でお会いしましょう。


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