第01曲「幻影」
人生のすべてを表現しつくしたような音楽とはどんなものだろうか。そんなことを考えたとき、真っ先に思い浮かぶのが――アルカンの小曲集、『エスキス』作品63だ。
などとぶちあげると、かえって不信を買いそうだが、決して嘘でも冗談でもありません。誇張はあれども。
性格的小品を並べた曲集というスタイル、実はこれって、複雑で巨大な世界を描き出すには最適なんじゃなかろうか。巨大なものを1曲の中に表現しようとして、重厚な大曲をつくりあげると、どうも内容が深刻になりすぎる。愛とか死とかそんなのばっかり前面に出てきちゃうわけです。でも実は生きることってそんなに深刻一辺倒じゃないよね、と言いたい。
役に立たぬ趣味に情熱を傾けたり、バカ話でおなかがよじれたり、からかわれて口をとんがらせたり。ふと子供のころを思い出して遠い目をしたり、なんとなく気分が冴えないので寝ることにしたり、大失敗して叱られて涙目になったり。そんな細々した事柄たちが案外、大事。
その辺りまで全部入り、悶絶のバラエティーを誇るのが、アルカンの『エスキス』だ。
この驚異の名作を、第1曲から順にひとつずつ紹介していこう、というのがこの連載の主旨です。
それから、ショパンの練習曲ばりに、ピアノ学習者の必修科目になると良いな、などとも密かに願っている。実際、この曲集をマスターすれば、表現力の幅は間違いなく広がります。バロックから近現代まで対応できる種々の技術も身につくし、それだけでなく、練習曲と違って、メカニック的には平易であるが故に表現は難しい、といった類の曲も入っているところが良い。1曲1曲は非常に短いので無駄に時間を取ることもなく、これほど副教材として優れた曲集もなかなか見当たらない......と私は思っているのですが、いかがでしょうか。
さて、早速、まずは第1曲「幻影」について。
暖かな旋律の中にひんやりとした孤独を閉じ込めたようなこの美しい音楽を聴くと、もしかすると大部の曲集の幕開けとしては地味だと感じるかもしれない。しかし、この静けさこそが、バラエティに富んだ曲集を引き締め、それぞれの曲の輝きを引き立てることになります。連載の中でも少しずつ解説していくつもりだけれど、この『エスキス』は曲集全体のまとまりもよく考えられていて、通して聴くと感動もいや増すようになっている。この第1曲も、曲集の最後まで聴き終わると、よりしみじみと胸にしみてくることは間違いない。願わくは、この連載自体もそんな最終回を迎えられますように。
学習者向け教材としてもプッシュしたいので、演奏上の留意点も簡単に書いてみる。メカニック的に難しい箇所は皆無だけれど、それだけにタッチには細心の注意が必要になってくる。そして何より、息を長く歌うことが大切。例えば出だしからのハ音の保続低音がありますが、この保続のあいだをひと息で歌うくらいのつもりで。終わり近くに単旋律になる部分は、直前の和音の響きの中にいるつもりで歌うとうまく流れが保てるはずです。
作曲者アルカンや曲集全体の構造についてはおいおい触れていきますが、ピティナのサイト内の記事(アルカンについて/エスキスについて)や、筆者のサイトで公開中の論文などもありますので、ご興味がおありでしたらお読みください(論文内でも、やや専門的になりますが『エスキス』の全曲解題をやっています)。
それでは、次回「スタッカーティッシモ」をお楽しみに。
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