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【海外レポート】第7回若いピアニストのための国際マスターコース(角野隼斗さん)

● 海外レポート(角野隼斗)第7回若いピアニストのための国際マスターコース(ポーランド,ラジェヨビツェ)

ピティナの推薦で、"THE 7th INTERNATIONAL MASTERCLASS COURSE FOR YOUNG PIANISTS RADZIEJOWICE"に参加してきたので、現地での様子や感じたことなどをレポートにまとめました。

ポーランドの伝統~才能育成のマスタークラスとは
初日

今回僕がマスタークラスで行われた場所はワルシャワから車で30-40分の小さい町、Radjewviceというところで、カラリと晴れて時折吹く風も心地よく、とても気持ちの良い気候です。僕が滞在したのは辺りで一番大きい宮殿で、その周りには巨大な芝生と池があり、まるで物語の世界に迷い込んだようでした。

参加者はやはりポーランド人が一番多く、ロシア人も結構いるという印象でした。アジアからの参加者はそれほど多くありませんでしたが日本人の参加者も何人かおり、川口成彦さんや反田恭平さんも参加していました。(特に反田さんはルームメイトで、レッスンと練習以外の時間をほとんど一緒に過ごしていました。)

このマスタークラスでは著名な先生方のレッスンを期間中に4回受講することができる他、ワルシャワ音楽祭のコンサートに行く機会も用意してくれます。特徴的なのは、モダンピアノだけでなくピリオド楽器でレッスンを受けることもできるということです。ショパンが生きていた頃の楽器は今とは全然違うのでピリオド楽器を使うことは楽譜の意図を理解する上でとても為になります。
もちろん他の受講生のレッスンは聴講することもでき、参加者はレッスンを受けて、聴いて、そして良い音楽に触れて、様々な刺激をもらいながら学ぶことができます。

宮殿では毎日3食提供されます。日本と違ってメインの食事は昼食で、夕食はあまりしっかりとは食べないようです。全体的にシンプルな味付けが多く、野菜とスープはとても美味しいです。

20時になると翌日の練習室の予約の紙が張り出されて、そこに早い者勝ちで予約することができます。皆がその紙を目当てに待ち構えている様子は、さながらコンクールの結果発表のようです。練習室はモダンピアノの他にピリオド楽器も触ることができて、中でも一番人気だったのはプレイエルとエラールの入っている部屋。練習室以外にも部屋には電子ピアノがあり、空き時間にルームメイトの反田くんとピアノを囲んで談義する時間もそれはそれでとても有意義な時間でした。

2日目

2日目は、クシシュトフ・ヤブウォンスキさんのレッスンを聴講しました。彼は1985年のショパン国際コンクールで第3位に輝き、ルービンシュタインコンクールでも優勝しています。彼はとても陽気な性格のようで、レッスン中も3分に1回くらい爆笑していたのが印象的でした。握手もしてもらったのですが、片手なのに両手で握手されているような感覚で、手の筋肉の分厚さを感じさせられました。

先生の仰っていたことで印象的だったのは、作曲家の演奏をする時、楽譜と異なる表現がどの程度まで許されるかというもの。
彼は楽譜通りに弾くという概念を絵画へのアナロジーを用いて説明していて、例えばある画家が描いた絵を他者が改変する時、その作品の軸となる形や色使いなどに手を加えてしまったらそれはもうその人の作品ではなくなります。楽譜を演奏する時も同じで、作品の構造を変えるようなことをしてしまってはそれはもうその作曲家の作品とは言えなくなってしまう。作曲家の作品として演奏する以上、楽譜に書いていないことをやってはいけないのです。しかしそれも程度の問題であり、そのボーダーラインが人によって異なるので時に議論を起こします。
スタッカートは本来音価を半分の長さにするというもので、そんなに鋭くしすぎるものではないということも強調していました。もちろん毎回正確に半分でなければならないということはないですが、ショパンの場合はあまり鋭いスタッカートをする機会はないので、この基準は概ね正しいのかもしれません。

3, 4日目

3, 4日目はモスクワ音楽院出身のNikolai Demidenkoさんのレッスンを受講しました。僕はソナタとバラード2番を持っていったのですが、ffが大きすぎる、細かいパッセージが速すぎるということをまず強く言われました。この辺りは指摘されがちな部分なので、より注意して弾かなければならないなと反省しました。
彼は要所要所で独特な解釈を持っていて、例えばバラード2番の中間部のpiu mossoは、感情の問題であって実際に速くなってはならない。Presto con fuocoに向かうaccelerandoは厳密に最後4音のみでしなければならない。といった具合に、何故そう考えるのだろう?と思う部分もいくつかありました。あと厳しく言われたのは、和音を弾くとき僅かでもそれぞれのアタックのタイミングがズレてはならないということ。自分の耳では区別できないレベルまで厳しく言われ、この厳しさが洗練された音楽を生み出すのだなと痛感しました。
ソナタは貴方には早いので、5年寝かしなさいと言われました。頷いていましたが、「それじゃあショパンコンクールに間に合わないなあ」と心の中で思いつつも... 自分の未熟さを痛感できるところが、レッスンの良いところですね。
ポーランドの人は楽譜に厳格な先生が多い印象がありますが、ロシア人でこれだけ(というのも失礼かもしれませんが)ショパンの表現について厳格で、真摯な人も珍しいような気がします。唯一褒められたのはバラードの2番で内声を強調したことです。ロシア人っぽい。
ちなみに先生は作曲家の故冨田勲さんと数年間プロジェクトを一緒にやっていたそうで、彼の音楽は真に普遍的であると、絶賛していました。僕も彼の作品は本当に大好きです。

    凄まじい熱気を帯びた「ショパンと彼のヨーロッパ」音楽祭
    ショパンと彼のヨーロッパ音楽祭

    4日目の夜はワルシャワにて開催されている音楽祭のコンサートに参加しました。前半は18世紀から現代までの4人の作曲家が取り上げられ、最後には日本人作曲家である藤倉大さんの作品「海」が演奏されました。
    後半は今回のマスタークラスでも指導しているヤブウォンスキーさんがソリストを務め、ショパンのピアノ協奏曲第2番が演奏されました。アンコールでは客席の熱気に応えるように次々とショパンの楽曲を演奏し(英雄ポロネーズ、ノクターン嬰ハ短調遺作、革命のエチュード)、観客を熱狂させました。全体的に音の密度がものすごく迫力に圧倒されていたのですが、ノクターンの音のppの美しさは絶品でした。指揮は下野竜也さん、オーケストラには広島交響楽団の方々が加わっており、観客には日本人の方もとても多いように見受けられました。

    6日目の夜にもコンサートに参加しました。この日は最初にアンダンテ・スピアナートを若手のピアニスト、Piotr Alexewiczがソリストを務め、非常に煌びやかな音色と歌い回しで聴衆を魅了しました。続いてはNelson Goernerがソリストを務め、ラフマニノフ協奏曲第3番が演奏されました。弾き終えた後の会場は大熱狂。数十人規模でブラボーが飛び交い、満席のスタンディングオベーション。海外のコンサートを聴くといつも思うのですが、このような凄まじい熱気の帯びた雰囲気をどうやったら日本でもできるだろうといつも考えてしまいます。

    4日目

    この日はケヴィン・ケナーさんのレッスンを受講しました。英雄ポロネーズを見てもらったのですが、自分の楽譜の読み込み力の足りなさを突き付けられた気分でした。彼はとても頭脳明晰で、論理的であるような印象を受けました。各強弱記号、速度記号、アーティキュレーションなどの音楽記号が何故そのようになっているかを考察する能力が高く、アナリーゼの方法について学ぶことが大きいレッスンでした。音楽記号に理由づけをすることは音楽に説得力が増すだけでなく、記憶をより強固なものにします。
    これは余談かつ言い訳なのですが、現行の楽譜というものは「ほぼ同じものを繰り返すけどごく一部だけ変更する」という形を表現するのに不向きすぎないでしょうか。楽譜を読み込む時に、1回目と2回目で音楽記号が違うところはないかと、いちいち対応する部分を目で追って確認しなければいけないのは、いつももっと良いやり方ないのかなと思ってしまいます。プログラミングの世界では、同じ処理のコードを繰り返し書かないことが基本的には推奨されます。楽譜でも同じ考え方が応用できるのではないか、同じ部分を共通化してよりコンパクトな表現にできるのではないか、などと考えたりします。

    6日目

    最後のレッスンは、第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクールの審査員長も務めたアレクサンダー・リュビモフのレッスン。マズルカOp.24を弾いたのですが、彼の頭の中にある音楽がどんどんこぼれ出てくる感じで、これだよこれ!と思いながら食らいつくようにレッスンを受けていました。レッスンで散々有益なことを言った最後に"I don't know, ask some polish"と言っていたのも印象的でした。無知の知の境地ですね。

マスタークラスを通して感じたこと
海外の先生のレッスンを受ける意義

ピアニストとして第一線で活躍する方のレッスンを受ける意義は大きく2種類あると思っていて、一つはアナリーゼの方法論を学べること、もう一つは先生の頭の中にある音楽を盗めること。もちろんこの2つは完全に区別されるものではなくあくまで傾向としてのものです。前者は理論的で言語化されやすく、後者は直観的で言語化されにくいものです。

マスタークラスのような、初見の生徒に1回(もしくは高々数回)教えるというシチュエーションにおいては、良くも悪くも万人に有益であるようなアドバイスになりがちなので、レッスンは前者に偏るのではないかと思います。

ポーランドのある先生は、ショパン国際コンクールでマズルカ賞をどのように決めているかという質問に対して、「楽譜通りに弾いている人です」と答えたそうです。これは楽譜の忠実な解釈がいかに難易度が高いかを表していますが、そうは言っても僕は人の心を掴むには、何かそれ以上のものが必要だと僕は信じています。そのためには、後者のような自分の理想とする演奏家の表現を盗めるレッスンをいかに受けられるかが最終的には大事だと思っています。その意味では、どのようなことを教えて欲しいかをレッスンの前に明確に伝えるのは大切かもしれません。

楽譜に忠実とは何か?

クラシックのレッスンは往々にして自己流に逸れたものを楽譜に忠実な形に戻すという形式を取りますが、では「楽譜に忠実」とは何でしょうか。これは思ったよりも簡単な話ではありません。
多くの先生のレッスンを受けていると解釈が人によって様々で、時にそれらが相容れないこともあります。例えば、ポロネーズのリズムは1拍目を長めに取るべきと言う人もいれば、全て均等に弾かれるべきと主張する人もいます。(テンポやリズムに関しては最も意見が割れがちな印象です)どれだけ自己流の表現を加えて良いかというボーダーラインも人によって異なります。

しかしはっきり言えるのは先生の頭の中にはそれぞれ明確な音楽像があり、それをレッスンの中で伝えようとしているという事です。どのような解釈であれ、細部まで明確な意思を持ち、一貫性を保つということがきっと「説得力のある演奏」に繋がっているのだと思います。なので一つ一つの指示に従うだけでなく、先生が持っている音楽の本質を理解しようとする姿勢が重要である。そんな風に感じたマスタークラスでした。

ピリオド楽器(フォルテピアノ)を学ぶ意義

ショパンの生きていた時代のピアノは、現代のピアノと全く違います。今回のマスタークラスで全ての先生が口を揃えて言っていたことは、「我々が現代のピアノでショパンを弾く時、それは別の楽器にトランスクリプションされたものを弾いているということを理解しなければならない」ということです。例えばペダリングはもっとも顕著な例で、当時のピアノは今よりも音の減衰が速く低音の鳴りも弱いので、ショパンのペダリングはモダンピアノではふさわしくない場合が多々あります。またあまり大きな音も出ないので、ff以上をモダンピアノで弾くときに、それが本当にショパンの欲しかった響きだったのかも注意深く考える必要があります。そのようなことを考える上で、当時の楽器を弾くことはとても面白く、勉強になります。あと音が魅力的で弾いていて楽しいです。素朴な音というかなんというか...

もっと古い時代のピアノになると今度はさらに鍵盤が薄くなるので手首の上下はほとんど意味を為さなくなり、すべて指先で音をコントロールする必要が出てきます。逆に、初めて手首を駆使したレガートの奏法を編み出した人がショパンでした。写真の手前のピアノはペダルが足元ではなく、膝上(鍵盤の裏)にあり、膝を上げることでペダルを押します。足の短い人は少し厳しいらしいです。

まとめ

今回参加したマスタークラスのレポートと、感じたことを書き連ねました。そんなの当たり前じゃんと思う方もいれば、それは違うんじゃないかと思う方もいるかもしれません。これは一人のただピアニスト見習いが感じた記録として、受け取っていただければ嬉しいです。今後マスタークラスの受講を考えている人、留学しようとしている人などの参考になれば幸いです。

おまけ
マスタークラス前日 観光

アウシュビッツ収容所をどうしても見に行きたかったので、1日前乗りして観光しました。首都ワルシャワから南に電車で3時間行ったところにクラコフという街があり、そこからさらにバスで1時間半行くとアウシュビッツ収容所に行くことができます。8時過ぎにクラコフのホテルを出て、10時に現地に到着しました。しかし待ち受けていたのは長蛇の列。4時間以上待って入れたのは14時半。その日にワルシャワに戻らなければいけなかったので、時間的に全然余裕はなく、予約していた帰りのバスも乗れず、大変な思いをしました。
文化遺産を訪れる醍醐味はやはり本物の魔力に触れられることです。短い時間でも、今まで本やメディア上でしか見ていなかったものを間近で感じられたことは良かったと思います。今度来るときはゆっくり見たいなあ。

クラコフの旧市街もとっても素敵でした。
フレデリク・ショパン研究所はラジェヨビツェのThe Artist Houseとの共同で、ラジェヨビツェの宮殿で2019年8月15日から23日に開催されたる第7回若いピアニストのための国際マスターコースを開催している。
このコースは、音楽学校や音楽院の生徒、学生、卒業生、および時代楽器の演奏に関心のあるすべてのピアニストを対象としており、伝統となっているように、若いピアニストが著名な芸術家や教育の指導の下に研鑽を積む機会を与えています。モダンピアノは、ニコライ・デミディエンコ、クシシュトフ・ヤヴウォンスキ、ケヴィン・ケナーが指導し、ピリオド楽器のクラスはトビアス・コッホとアレクセイ・リュビモフが指導を担当。また、海老彰子とハワード・シェリーがゲストとしてコースに参加した。生徒たちは、マスタークラス期間中に同時開催されている「ショパンと彼のヨーロッパ音楽祭」を聴きにいくことができるなど鑑賞なども組まれるなど、充実したプログラム。
レポート◎角野隼斗
1995年生まれ。千葉音楽コンクール全部門最優秀賞を史上最年少(小1)にて受賞。ショパン国際コンクール in ASIA金賞受賞。2018年ピティナ・ピアノコンペティション特級グランプリおよび文部科学大臣賞。2018年フランスに短期留学。ソルボンヌ大学在籍、フランス音響音楽研究所にて音楽情報処理の研究に従事した。現在、東京大学大学院2年生。
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