ピティナ調査・研究

【インタビュー】上田泰史さんに天皇陛下の御下賜金授与!

上田泰史さん、日本学術振興会 育志賞受賞!
  天皇陛下より御下賜金の授与
  ~ピティナに貢献する若手研究者が、ピアノ音楽研究の最前線で快挙
上田泰史さん

ピティナのウェブサイト「読み物・連載」コーナーで、「『チェルニー30番』再考」「19世紀ピアニスト列伝」「ピアノ・ブロッサム」などの連載、またピアノ曲事典の"副編集"として事典項目の執筆・校正やFacebookでの投稿をするなど、大活躍中の上田泰史さん。パリで研究生活を送る彼は、2013年にパリ第4大学音楽学修士号を取得し、現在は在籍中の東京芸術大学のための博士論文を執筆中だ。19世紀のフランス・ピアノ音楽とピアノ教育の歴史に焦点を当てた彼のこれまでの研究が高く評価され、このたび日本学術振興会が優秀な博士課程の学生に授ける「育志賞」が贈られた。
これは大変な快挙である。というのも、この賞は天皇陛下が即位20年にあたって資金を贈られて設立された栄誉ある賞であるということだけでなく、全国の各大学のトップクラスの若手研究者の中から、わずか18名だけが選ばれ、しかもそのほとんどが理系の研究者に与えられる中、上田さんは文系の、それも音楽学という分野で受賞に輝いたのだ。
去る3月4日、天皇、皇后両陛下臨席のもと、上野の学士院会館で授与式が行われた。両陛下から直接お言葉を賜り、これからの研究にますます意欲を燃やす上田さん。受賞の喜びと、彼の研究について話を伺った。

栄誉ある育志賞を受賞して
育志賞の受賞、おめでとうございます!

ありがとうございます。天皇陛下が若手研究者を支援なさりたいというお気持ちが強く反映された賞ということで、大変光栄です。

この賞は、どのような経緯で贈られるものなのでしょうか。

大学、学会、協会などの推薦により候補者が決められます。私は東京芸大の宮田亮平学長より推薦のご連絡をいただきましたので、これまでの業績や現在進めている研究について、書類に書いて提出しました。業績には、ピティナに寄稿した文章なども入れています。

音楽分野では初の受賞ということですね。

はい。私の研究は、音楽を楽譜の中だけで完結するのではなく、ピアノ教育を社会・思想・歴史・教育といった広い視点から総合的に捕らえているものなので、その姿勢を評価していただきました。

表彰式の様子
授与式では、皇后陛下と研究内容についてお言葉を交わされたそうですね。

はい。皇后美智子様はご自身もピアノを弾かれますから、芸術に関心がおありで、「どういう研究内容ですか?」と訊いてくださいました。「ショパンのような作曲家は、現代では『古典』という権威をあたえられていますが、音楽はいつどのようなプロセスを経て『古典』とされていくのか、そこに関心があり研究しています」と答えました。すると、皇后陛下は、「当時はそういった作曲家(ショパンら)は、まだ広くは知られていませんでしたでしょう。それに当時はピアノよりもオペラが社会の中で重要な役割を果たしていましたね」とおっしゃいました。「おっしゃるとおりです。ですから、充分に研究が進んでいなかったピアノ音楽の領域で、どんな事が起こっていたのかを研究したいと思ったのです」と申し上げると「古典というものがある一方で、新しい流れもありましたね」とお話下さいました。ドビュッシーらの近代の作曲家を念頭に置かれてのお言葉だったと思います。

アカデミズムの最前線から、ピアノ曲のレパートリーを探る
上田さんは、これまでにピティナの「読み物・連載」などで、19世紀のピアノ曲を中心に、さまざまなコンテンツを執筆されていますが、現在の研究テーマをズバリ言葉にすると、どのようなものですか?

「1850年代から80年代までのパリ国立音楽院におけるピアノ教育」です。副題は「レパートリーの成立過程とその諸要因」となります。

パリを舞台としたご研究なのですね。なぜその時代のパリなのでしょうか。

現在の日本のピアノ教育を知るためには、日本の近代化、つまり西洋の文化を受け入れててきた過程を知らなくてはなりません。そのためには、その「親」である西洋の事情を知らなければなりません。地質学をやる人は、天体のことも研究しなくていはなりません。根本を探ろうっていうことです。
パリはヨーロッパの中でも近代化が最も進んだ都市の一つで、とくに文化面で大きな進歩を遂げました。そこで、ピアノという楽器を巡り、どのように作曲や出版が行われ、それを普及する教育がどのように行われてきたのかを探りたいと考えました。まずはヨーロッパの近代を見ないと、日本の近代は語れないのです。

では、上田さんの研究は、ゆくゆくは日本のピアノ教育の考察へと繋がるのでしょうか。

ぜひ繋げたいですね。今や日本でピアノという楽器は、体育館や集会所など、いたる所にあります。その馴染み深いピアノという楽器で、人々の間で頻繁に演奏される曲目は、「レパートリー」と呼ばれます。レパートリーとなる曲は、いわゆる「名曲」とか「古典」という言葉で表される作品です。「名曲」や「古典」という権威は、いったいどのように発生しているのでしょうか。私が知りたいのはそこです。権威というものが、何に由来しているのか、ということ。ただ単に、「いい曲だ!」と人々に思われる程度のことなのか、それとも何か歴史的に背負っているものがあるのか、その辺りの由来が曖昧ですよね。
逆を言うと、「名曲」や「古典」と言われていない曲の中にだって、いい曲はあるかもしれません。「いい曲」の基準というのは、いろいろな文脈の中で作られるものだとは思いますが......。
過去に生まれてきたピアノ曲の数は、現在私たち知る数の何十倍も、何百倍もあります。それらに対して、先人たちが付与してきた権威に、今も私たちは寄りかかり過ぎているのかもしれませんよ。

権威あるレパートリーとは何か、いったん見つめ直してみようということですね。上田さんはご自分の研究で、具体的にはどのようにしてレパートリーの確立を探っていらっしゃるのでしょうか。

頻繁に演奏される曲目とは何かを調べるために、1840 年代からのパリ音楽院の試験曲の記録を分析しています。音楽院には年に前期・後期・終了試験と3回の試験があって、延べ5000人くらいのデータをフランス古文書館で集めました。研究者に開かれている資料を読み込んで、エクセルにまとめるのに3年はかかりましたね。でも面白い作業なんですよ。実際にドビュッシーがいつ、どんな曲を弾いて、それをマルモンテルがどうコメントしているかなど、一次資料を通じて触れられるので。ちなみにドビュッシーヘラーの曲などを弾いていました。

集めたデータを、レパートリーを探る観点から、どのように読み解いていくのですか?

曲名、作曲家、作品番号などを項目別に整理して、どんなジャンルの曲が多く演奏されて来たのかを分析しています。さらにそれを、どんな文脈で理解すればいいのかを考えるのが、私の論文の大きな課題です。おもに三つの観点から考えようとしています。
一つは楽譜出版です。1850~60年代にかけて、さまざまなアンソロジーの楽譜が出版されていました。ルネサンスからショパンまでの作品から、教授たちが選曲しているんです。それらが「古典」となっていくので、どんなふうに編纂されていたのかを調べています。
二つ目は音楽の様式です。「演奏されるべき作品」としての基準が、フレーズ、つまり楽句とか楽節に基づく構造的な作品に置かれるようになりました。ソナタ形式で書かれた音楽は、非常に重視されていたのです。
三つ目は音楽美学です。19世紀の前半に活躍した哲学者にヴィクトル・クーザンという人がいて、彼はスピリチュアリズムの流れを作った哲学の大御所で、音楽の自律性も説いています。彼の思想はフランスの教育にも大きな影響を及ぼしていて、ピアノ教育とも実はかなり密接に関係しているのです。

ピティナは研究者にとって社会との接点
根気のいるデータ収集と、大胆な切り口からの分析。パリで充実した研究生活を送っていらっしゃるのですね。そんな上田さんが、「読み物」や「ピアノ曲事典」を通じて、ピティナの活動にも従事されている訳ですが、ピティナとの関わりをどのように捕らえていらっしゃるのでしょうか。

自分が研究を進める上では、やはり社会との結びつきが大きなモチベーションとなります。ピティナの読み物や、ピアノ曲事典や、事典Facebookページは、私にとって社会と接する窓口なのです。
会員のピアノの先生方とは、残念ながら頻繁に意見を交換する機会がありません。しかし先生がレッスンされる上でも大切な知識、たとえば作品が生まれた当時の社会制度などの情報を、私からご提供できるかなと思っています。
以前、フランスでアンリ・バルダ先生のレッスン通訳をやったことがあるのですが、バルダ先生は「この曲のここは、ギリシャ神話のどんなシーンかわかる?」などと生徒に質問していました。日本の学生はそのような場面で、きょとんとしてしまうんですよね。
ピアノのレッスンは1対1の空間。そこで本当は様々な会話がなされていいはず。単に指をどう動かすとか、フレーズをどう作るかということを言うだけではなく、豊かな人間性をもった魅力的な存在として、教師は生徒の前に立てるかどうか.......。19世紀のパリ音楽院の教授だったフェリックス・ル・クーペは「評価するのは先生のほうではなく、生徒のほうだ」と書き残しています。指導者は、広い視野、大きな世界観をもっていることが望ましいというわけです。その意味で、さまざまな学びのコンテンツを提供しているピティナのサイトに、執筆陣として関わらせていただけるのは、とても嬉しいことですね。

ますます充実の研究成果が期待される上田さん。若手研究者として最前線での研究を、ますます意欲的に続けていただきたい。