貴族気取りの音楽家4 ―訣別―

掲載日:2012年10月31日
執筆者:上田泰史

今日で10月も終わりです。日本では金木犀が散り橙色に地面が染まっている頃でしょうか。生気に満ちた春の花も素敵ですが、秋の花の可憐さもまたしみじみとした味わい深さがあります。私の住むパリ近郊の街では夕方になると露店の花屋が駅前に出て、行き交う人々が花を買って家路に付きます。日本では少し気取った風に見られがちですが、花を家族や恋人にプレゼントすることはヨーロッパでは比較的日常的な習慣なのかもしれません。ところで、以前、フランスの友人に、たとえ友達でも安易に黄色いバラを贈ってはいけないと教わったことがあります。なんでも、特に異性に対しては嫉妬や裏切りといった意味合いがあるそうで、別れを象徴するからなんだそうです。
離別、惜別、哀別、生別など別れを表す言葉の多くはネガティヴなニュアンスを含んでいます。ショパンの「別れの曲」は惜別の情を掻き立てるような美しいメロディーで広く知られています。もっとも、この「別れの曲」という名称は、20世紀に制作された同名映画から取られたニックネームで、惜別のイメージはショパン本人とは全く関係がないのではありますが。しかし、「別れ」といっても涙ながらの悲しいばかりが別れではありません。「決別」は新しいスタートを切るための積極的な別れの一つです。
既に見たように、ショパンは、1831年、パリに到着後、当時最も影響力のあったピアニスト兼作曲家、カルクブレンナーの演奏にすっかり心を奪われました。ほどなくカルクブレンナーに入門し3年間の課程に従事するよう勧められますが、ショパンはポーランドの師ジョゼフ・エルスネルに手紙で相談した上で改めて自分と向き合います。熟慮の末に彼が出した答えはこうでした
僕は、3年間の勉強を承諾することだってできたのです。もし、そのおかげで僕の計画を実現に向けて大きく一歩前進させることができたのなら。僕はカルクブレンナーの複製にはなるまいと十分に確信していますので、新しい世界を創造したいという、僕の大胆すぎるかもしれませんが高邁な考えと願望を奪うことのできるものなど何一つとしてないでしょう。※1
それは、外界への依存心に対する彼の内的な創造理念の勝利でした。
ショパンに決別を突きつけられたカルクブレンナーは、およそ七年後、またしても同じ経験をします。しかも、今度の決別は一触即発の緊張を孕んだ、いくぶん物騒な決別でした。1838年にパリに移住したドイツの青年ステファン・ヘラーは、ショパンの時と同じようにカルクブレンナーから入門の誘いを受けます。カルクブレンナーはパリに不慣れなヘラーのために出版社を紹介したりと世話を焼きますが、罵りあう先生と出版社の乱暴な交渉を見て唖然とします。都会の著名人はこのような、およそ品のない交渉をするのか・・・その不快な印象は、カルクブレンナーへの最終的な入門の時点で最高潮に達します。今日は、出版社訪問から数日後、いよいよ登録のために先生宅を訪れる場面です。ところが・・・
(このテキストは喜劇的に脚色されたヘラーの回想録からの抜粋です)
数日後、カルクブレンナー氏は私を自身のサロンに連れて行きそこで腕を支える木のバーを使って練習している青年を見かけました※2。私は初め、これが手かせか何かで、その上で不幸な患者の手がなにか音楽上で犯した罪を償うために置かれているのだと思いました。私は、この不幸な若者の前にある譜面台に《ピアノのための華麗なポロネーズ作品86 カルクブレンナー作曲》と書かれた楽譜が置かれているのを目にしました)。私は数日前に話すところを聞いた無作法な編集者のことを思い出しました※3。そして恐ろしい復讐がここでたくらまれているのではないか、という考えがすぐさま私の心に浮かんだのです。
しかし、それは思い違いでした。カルクブレンナー氏は私に言いました。
「ほら、ステファン君、こちらは先輩だよ。彼はもう上達しているから、あなたは彼にアドヴァイスをもらいなさい。毎週、私が直々にレッスンを付けるが、私が都合のつかないときは私の優れた生徒であるカミーユ・スタマティ君※4が代理をすることになるよ。まずは、始める前にちょっとした試験だ。三年間、芸術を志す生徒がみんな私に払わなければいけない1500フラン※5を支払えるかね?もし私に支払う現金―まず500フランの前金がいるのだが―を持っていないなら、このような書類にサインしてもらうことになる。『私以外のメソッドの教育法で決して教授しないと誓ってもらう。もし何か作曲した場合、私の許可なしにいかなる出版者にもそれを渡さない。私は自分の生徒が凡庸な、あるいは出来の悪い作品を出版者に渡すことで巻き沿いを食らいたくないからね。いかなる条件下でも、私の許可なく生徒をとらない。』それじゃあ手始めに、32個のシャープを持つ調※6とは何か言って御覧なさい。」
「えっ」と私は言った。(彼は声を際立たせて繰り返した)
私は答えて曰く、
「すみません、よく聞こえないんですが。」
彼は怒鳴って言った。
「この××ドイツ人め、こう尋ねているんだよ、ええい、音部記号に32のシャープを持つ調はなにか、調の名前だよ、こういえばいいかな、つまり旋法はなにかと訊いているんだ。」
今度は私のほうに怒りが込み上げてきました。ですが私はそれでも自分を抑えました。
「私はこのようなパリの通りの喧騒には慣れておりません。」※7私は十分に平静をたもって言いました。
「たぶん、私は耳鳴りがしているのです。先生はほんとに冗談をおっしゃっておられるのですよ」
「なんだって!私がふざけているというのかね、あなたの方こそ悪い冗談を言うね。あなたのような弟子たちは下働きに過ぎない、芸術家ではないのだ。24の長短調しっていれば、あなたは十分に知識が身に着いたと思っているんだろう。だが、私は必要なものだけでは満足しないのだよ。私はね、芸術家に必要なこと以上に多くのことを知っている。私は玉突きでは一級だし乗馬では二級だ。私は先生のコリニョンのように剣術にたけている。どんなカード遊びでも私の右に出る者はいない。こうしたことはどれも必要なことじゃないかね?さあ、32のシャープをもつ調は?」
私はもう我慢ならなくなった。自分が憤激したしるしである赤や緑がちらつき始めた。頭に血が上っていくのが分かった。舌は重く、まるで巨大な力で抑えられているようだった。
私は自分に言い聞かせた。
「どうしたステファン、おまえはこのままこうしてこのくだらぬ傲慢な男に罵られるがままに身を任せるのか。この愚かで思い上がった馬鹿者に。おまえはこれから《幻想曲》や《ポロネーズ》のような曲を毎日下請けに出してくるような男の奴隷になるつもりなのか。経験の浅い若い芸術家の誇りを傷つけ、もちものといえば名声くらいなものだ、それも名声があればの話だが。お前よ、お前のいろいろな作品はシューマンが実に常軌を逸したものだといって楽壇に知らしめたじゃないか、お前はどうして下請作業員ということがあろうか。そしてカルクブレンナー氏の生徒のレッスンをうけるなんて!いや、そうなってたまるか!」
私は怒りに声を震わせていった。
「カルクブレンナー先生、私はどんなガイドもなしで済ませられるくらい上達した音楽家です。そのガイドが特許取得済みのあなたの手導器だったとしてもね。私は一日八時間練習していたことがあります。わたしはあなたのポロネーズもいくつか演奏して大変苦しい思いをしました。『過ぎ去りし時よ!Tempi passati!』私はもう音楽で袖飾りや紐飾りを作るのはいやなんです。一八三〇年の革命以来、私ども若きドイツは悪しき王たちを追い払いました。ポロネーズというアンシャン・レジームはよき立憲体制のソナタにとってかわられたのです。あなたの埃をかぶった鬘には要注意ですね!」※8
運の悪いことに、騎士カルクブレンナー氏は文字通りの鬘をかぶっていた。
彼は私をじっと見つめ、唖然としていました。そして武器か棒のようなものを探しだしました。
私のほうも、部屋のすみに気遣わしげなようすで無造作に置かれていた手導器で武装しましたが、そのせいで不穏な空気が長引きました。
長い沈黙の後、この騎士氏は怒鳴って言った。
「私の生きているうちは、あなたには生徒も出版者もないだろうよ!」
私は言い返した。
「少なくとも私は『ガゼット・ミュジカール』紙に記事を書く時間ができますからね※9。この雑誌編集者シュレジンガー氏は私のために紙面を割いてくれたのだから、現代のポロネーズについての何かきちんとした批評、十二、十三、十四万リーブルも稼ぐような資本家まがいの作曲家兼ピアニストの大敗について書かせてくれるでしょうよ。」
私は挨拶をして立ち去って、この騎士…産業界の騎士から解放されたことをうれしく思いました。「産業」というのも彼はプレイエル氏とピアノを製造していたからです。
ですが、私は日々資本の七〇〇フランが減っていくのをみてびくびくしていた。なにしろシュレジンガー氏は『ガゼット』紙に書いた私の記事を載せてくれたのだけれど、私の作品については耳を貸さなかったのだから。
- この回想録は下記の書籍中で出版されています:J.-J. Eigeldinger, Stephen Heller:Lettres d'un musicien romantique à Paris, Flammarion, 1981. (ジャン=ジャック・エーゲルディンゲルの著作『ステファン・ヘラー―パリのあるロマン主義音楽家の手紙』、未翻訳)
シリーズの終わりにヘラーの《夜想曲》をご紹介。秋に相応しい静けさの漂う一曲です。秋の夜長にこっそりピアノで、いかがでしょうか。
- J-J. EIGELDINGER, Chopin, vu par ses élèves, Paris, Fayard, 2006, p.133
- カルクブレンナーが開発した「手導器guide mains」という演奏補助器具のことを指します。
手導器の図
- 昨日のエピソードに登場した出版社シュレジンガーのことです。シュレジンガーはカルクブレンナーに面と向かって《ピアノのための華麗なポロネーズ》が売れていないからお金の支払いを待ってくれるよう要求し、カルクブレンナーと口論になりました。
- カミーユ・スタマティCamille-Marie Stamaty (1811-1870):カルクブレンナーの門弟中、最も傑出したピアニスト兼作曲家。メンデルスゾーンにも師事し、シューマンから激賞を受けている。協奏曲、ピアノ三重奏曲、二つのソナタ、数々の練習曲、その他小品がある。
- 1500フランというと、当時のパリ音楽院ピアノ科教授の年俸が2000フランですから、青年ヘラーにはとても手に負えない金額であることは明らかです。最後にヘラーが述べているように、彼の手持ちは700フランしかありませんでした。
- 1500フランというと、当時のパリ音楽院ピアノ科教授の年俸が2000フランですから、青年ヘラーにはとても手に負えない金額であることは明らかです。最後にヘラーが述べているように、彼の手持ちは700フランしかありませんでした。
- 西洋音楽のシステムでは、調によってト長調なら♯が一つ、ニ長調なら二つ、というように♯・♭の数が決まっています。調を定めるために音部記号の隣にまとめて記入される♯や♭を調号といますが、調号は♯・♭共に7つまでしか付ません。「32個のシャープを持つ調」理論上は可能ですが、実践的な意味は全くないので、ヘラーにはこれがいじわるな無理難題としか思えなかったのです。7つ以上のシャープ・フラットが付く当時の記譜実践については下記を参照してください。
- このシーンに先立って、カルクブレンナーは「都会の喧騒」に慣れておらずぼそぼそと話すヘラーに向かって、都会ではもっと大きな声ではっきりはなさなければならない、と大声でアドバイスしています。
- 皇帝ナポレオンの失脚後、1815年にフランスではブルボン朝による絶対王政が復活していました。1830年の7月革命でブルボン王朝は打倒され、「フランス国民の王」を自称するオルレアン家のルイ・フィリップによる王政が始まりますが、こちらは王の権利が議会の制約を受ける立憲君主制をとっていました(七月王政)。「アンシャン・レジーム(旧体制)」とは1830年以前の王政復古時代、ならびに大革命以前の絶対王政時代を指します。1820年代から30年代にかけて流行したポロネーズはもう時代遅れ(=復古時代の産物)で、ドイツの格式あるソナタがこれからは表面だけは煌びやかな舞曲(=王族の古めかしい華やかさ)を駆逐していくのだ、ということを言おうとしています。ここに、革命以前、1785年生まれのカルクブレンナーと1813年生まれのヘラーの間のジェネレーション・ギャップを認めることができます。
(文・翻訳・注: 上田)